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「ボストン美術館の至宝」展

会期:2017年7月20日㈭~10月09日(月・祝)

場所:東京都美術館(東京・上野公園)

休室日:毎週月曜日、9月19日(火)  *ただし8月14日(月)、9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開室

開室時間:午前9時30分~午後5時30分 *入室は閉館の30分前まで

      金曜日は20:00まで、7月21日、28日、8月4日、11日18日25日は21:00まで

展覧会問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

会期:2017年10 月28日㈯~2018年2月4日㈰

場所:神戸市博物館

会期:2018年2 月18日㈰~7月1日㈰

場所:名護屋ボストン美術館

ボストン美術館とは?

アメリカの美術館には、多くの美術館とは異なる特徴があります。それは「国ではなく個人が設立する国立美術館」という点です。近代以後のヨーロッパでは、王侯貴族や故人のコレクションを基としたとしても、公共施設としてのミュージアムを設立・運営することは国家の事業として認識されていました。これに対してアメリカの美術館は、収蔵品のコレクションだけでなく、美術館の土地や建物に至るまで個人の寄付によることが多いのです。

ボストン美術館はアメリカ合衆国で最も古く、また最も良く知られた美術館の一つです。1870年に美術館設立のための理事会が設立され、理事会は美術館の建設に必要な資金を広く募りました。1872年まで資金調達のためボストン・アセニアムで定期的に展覧会が開催され、およそ4年後には建物が完成する予定でした。

1872年、ボストンに大火事が起きてしまい、市は大きな打撃を受け美術品の多くも消失してしまいました。けれども復興し始めるにつれ、市民たちから資金と美術品が寄せられ、市民たちの力で1976年7月4日にアメリカ合衆国独立100周年記念日に開館することができました。

美術館への美術品寄贈や購入のための寄付により、開館時のコレクションは6000点以上になったそうです。その後も不動産や鉄道、鉱業や建設業への投資によって収益を得たボストン市民によって寄贈・寄付は増え、1879年には新しい展示室が増築されるまでになりました。ボストン市民たちが海外を旅行し、多くの文化圏で収集した美術品を寄贈・貸与により、この後も10年間で約3倍のコレクションとなりました。

動物学者のエドワード・シルヴェスター・モース、哲学者のアーネスト・フランシスコ・フェノロサ、ボストンの外科医のチャールズ・ゴダード・ウェルドやウィリアム・スタージス・ビゲローたちは、日本を旅し、巨大なコレクションを築き上げ、彼らのコレクションを展示するために、1890年、新しい展示室が開館しました。彼らのプロフィールや収集作品については、会場にパネルで紹介されていますので、鑑賞の参考にしてください。

ますます増えていくコレクションのために1909年、若い建築家ガイ・ローウェル(1870‐1927)の設計による古典復興的な特徴のボザール様式による威厳のある建物として現在地に移転しました。移送された美術品は11万点以上だったそうです。1915年には、大富豪マリア・アントワネット・エヴァンスの建築費用全額負担により、絵画と版画のための展示室エヴァンス・ウィングが開館しました。彼女の100万ドルの寄付で、アメリカの主要美術館として初めて、1棟1個人の寄付による美術館が完成しました。

その後も寄贈者たちによるコレクションは増え続け、フランスやイタリア絵画なども充実していきます。現在、ヨーロッパ美術のコレクションは7世紀から20世紀後半に及ぶ22,000点以上の作品が収蔵されて、中でもバルビゾン派や印象派、ポスト印象派の素晴らしい絵画が含まれています。

また、北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカのあらゆる時代の作品が含まれています。古代アメリカの金製品やマヤの陶器、ネイティヴ・アメリカンの貴重な品、英国植民地から現代に至るまでを網羅するコレクションが充実しています。

現代美術部は1971年に創設、1955年以降の作品に焦点を当て、絵画、写真、彫刻、インスタレーションに加え装飾美術、工芸品、デザイン、映像に及び多彩な表現での作品が集められています。

ボストニアン(ボストンゆかりの人)たちがアメリカ国内や世界中を旅して収集、そして寄贈した作品による「百科事典的」とも言える多種多様なコレクションを楽しみましょう。

Ⅰ 異国を旅したボストニアンたち

19世紀から20世紀初頭にかけて、各地を旅したボストニアンたちが収集した美術品を観ます。

1章 エジプト美術

E.H.ゴンブリッチは『美術の物語』の中で「約5000年前のナイル川流域の美術は、現代の美術までつながっている。(中略)ギリシャの名匠たちは、いわばエジプト美術の学校へ通った。そして、私たちはみんな、そのギリシャ人の生徒だといってもいい。だから、エジプト美術は私たちにとって特別に重要な存在である」と書いています。

芸術家の多くはギリシャ・ローマ美術を研究していますが、古典・古代の人々がエジプト美術に学んでいるとすれば、ゴンブリッチの言うように現代の美術まで、エジプト美術はつながっているのかもしれません。

エジプト美術は長い間厳格な法則を守ってきました。「座像は膝の上に手を置くこと」「男の肌は女の肌より暗く塗ること」「ホルス神はハヤブサの、アヌビス神は山犬の姿か、あるいは頭部を持つ人間の姿で描く事」その他ヒエログリフの絵や記号をはっきりと石に刻むなど規則がありました。そのため3000年以上もの間ほとんど変化しなかったのです。この時代を古王国時代(前2649‐前2100年)と言います。

厳格な規則にのっとった古国王時代の作品が展示されていますが、これらはクフ王やカフラー王、メンカウラー王の有名なピラミッドのある都市ギザの出土品です。ボストン美術館はギザの考古学的な発掘調査の支援の結果、この美術品を収蔵することになったのです。

その厳格なルールを排除したのが第18王朝の王、アメンヘテプ4世(アクエンアテン)です。この王は神聖視されてきた習慣を次々と破り、多神教からアテン(太陽王)だけを最高神とする一神教としました。その斬新な美術は、醜さも含めて表現する写実的なものでした。彼の後、旧秩序を復活させたのがツタンカーメンで、本展では≪ツタンカーメン王頭部≫が展示されています。

エジプトの人々は、霊魂が死後の世界でも生き続けるために、安置されたミイラのそばに王の肖像も一緒に残すことで、より確実に王が生き続けると考えました。エジプトでは、彫刻家は「いかしつづける者」と呼ばれたそうです。

端正な顔立ちの≪ツタンカーメン王頭部≫は、新王国時代のものです。ツタンカーメン王は短い治世の後、若くして亡くなった王で、1922年のハワード・カーターとカーナヴォン伯爵によって墓が発見されたことで有名です。アメンヘテプ4世のアマルナ時代直後の作品なので、写実性が残る作品となっています。ルールにのっとった古王朝時代と写実的な新王朝時代の作風の違いを見つけてみてはいかがでしょう。

《ツタンカーメン王頭部》エジプト、新王国時代、第18王朝、ツタンカーメン王治世時、紀元前1336-1327

高さ30.5cm × 幅26.7cm × 奥行22.2cm 砂岩 

Museum purchase with funds donated by Miss Mary S. Ames, 11.1533 Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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2章 中国美術

ボストン美術館における中国美術コレクションの本格的な形成は「五百羅漢」の収蔵を発端とします。1894年にアーネスト・フェノロサにより京都・大徳寺の「五百羅漢」44幅の展覧会が開催され、そのうちの12幅を売却、10幅がボストン美術館の収蔵となりました。

1905年には岡倉天心が中国・日本美術を収集するための「中国日本特別基金」の設立を美術館に嘆願しました。これは、清末の混乱などの中で良質の美術作品を収集することを目的としたもので、馬遠や夏珪の素晴らしい作品が収集されました。

鑑賞のヒントとして北宋について記します。五代十国の混乱をおさめ、中国を統一したのは宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)です。この時代、中国は江南の開発による経済的な発展をみせましたが、文化的には高くても軍事的国力は弱かったようで、北方民族の契丹(遼)や党項(西夏)に脅かされつづけて、ついに女真(金)の侵略を受け、国土の大半と皇帝を奪われました。

宋は全国の画家を中央に集め「画院」と呼ばれる宮廷画家の制度を確立し、画院画家たちを官職に任命して、皇帝や国のための絵画制作をさせました。かれら職業画家の作風は、繊細・謹厳なもので「院体」と呼ばれました。

山水画では画院の長である郭煕(かくき)が三遠法(ふもとから見上げるような高さを表現した高遠、山上から遠方の山々を見晴らすような広さを表現した平遠、山々の谷間の先を覗き見るような奥深さを表現した深遠の三つ)という中国山水画の基本構図法を完成させ後進を指導、以後彼の作風が正当な院体の画風となったのです。

徽宗は、北宋の第八第皇帝(在位1100~25)で、文芸を保護して「風流天子」と呼ばれました。皇帝でありながら院体花鳥画の名手で、本展では≪五色鸚鵡(オウム)≫が展示されています。珍しい鳥(近年、スグロゴシキインコであると特定されました)が貢物として宮廷に献上されたのを記念して描かれたそうです。徽宗は優れた筆ほど政治的な能力がなかったようで、女真(金)の侵入により捕虜となり、北の辺境の地で亡くなりました。

宋は一旦滅びてしまいますが、徽宗の子が高宗として即位し宋を再建しました。この南宋時代の絵画も画院を中心として発展しました。南宋画院でもっとも重要な画家は馬遠夏珪でしょう。

馬遠の山水画の特徴は余白です。風景の一部分を画面の片隅に描いて他を余白にします。「馬の一角」と評されました。また、張りのある描線や斧で断ち割ったような岩肌など力強さに溢れ、それらは夏珪に受け継がれて、南宋院体画の主流馬夏様式」と呼ばれました。

馬遠の≪柳岸遠山図≫や夏珪の≪風雨舟行図≫が展示されています。馬遠の片側に寄せられた風景とそれにより生まれた余白、手前に描かれた樹木の堅固な表現と淡彩の遠山とのコントラストが印象的です。また、夏珪の作品も余白を生かした大胆な構図がみられますが、より単純化された画風から大気の流れまで感じられます。

宋の時代、知識人や学者が、同時に画家でもあるという概念が生まれました。そのような、専門の画家とは異なり余暇に絵画をたしなむ知識人たちを文人画家と呼びました。陳容は南宋末の文人画家ですが、学者でもあり、地方官吏でもあり、また書家で詩人でした。書家としての筆使いを絵画に生かした文人画家の中でも、書の筆致だけでなく、墨に墨を重ねる「破墨」や墨をはね散らす「溌墨」という技法を用いて制作しました。

陳容《九龍図巻》(部分)南宋、1244年(淳祐4年)46.2cm × 958.4cm 一巻、紙本墨画淡彩   

Francis Gardner Curtis Fund, 17.1697 Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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3章 日本美術

ボストン美術館には貴重な日本美術が収蔵されていることで有名です。日本国外では最大のコレクションで、大半はボストンの数人のコレクターたちによってもたらされました。特にモース、フェノロサ、ビゲローの三人は、西洋に東洋美術を世界に紹介するという役割を果たした人たちと言っていいでしょう。

ボストン美術館の日本美術コレクションは10万点を超します。東京国立博物館の日本を中心とした東洋美術と考古遺物を併せると11万点以上なので、東京国立博物館に匹敵する規模と考えても間違えではないでしょう。

一方、日本の美術がなぜボストン美術館に数多く収蔵されているかという点ですが、明治維新以後、日本の近代化を進めた政府による西洋化の下、日本の伝統文化は軽んじられて古美術が安価に市場に放出された背景があるようです。

ボストニアンたちがコレクションを収集し、吉備真備のエピソード≪吉備大臣入唐絵巻≫が海外に渡ったことをきっかけに1933年(昭和8年)になって古美術品の国外持ち出しを規制する法律が制定されたのです。

エドワード・シルベスター・モース(1838-1925)は、ハーバード大学出身のアメリカの動物学者です。1977年日本海域の海洋生物を研究するため来日、東京大学の動物学教授職につきました。その後日本とアメリカを行き来し、講義と研究を続けますが、科学的な研究のかたわら日本の陶器を体系的に収集しました。このコレクションはボストン美術館の基金によって購入され、モースはボストン美術館で30年以上にわたり日本の陶器コレクションの管理をしました。尾形乾山≪銹絵観瀑図角皿≫などモースによって収集された3点の美術品が展示されています。

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853-1908)は、ハーバード大学卒業後モースの推薦で来日して東京大学の哲学と政治経済学の教授となり、後に東京美術学校(現在の東京藝術大学)でも教鞭をとります。来日前にはボストン美術館付属の美術学校で、油彩とデッサンを学んだこともありました。モースやビゲロー、岡倉天心らと日本中を旅して1,000点以上の絵画コレクションを築きました。本展では英一蝶≪涅槃図≫曾我蕭白≪風仙図屏風≫など貴重な作品が展示されています。

またフェノロサは西洋化する当時の風潮に対し、狩野派など日本の伝統的絵画を推奨したことで、当時の日本の美術行政に大きな影響を与えた人でもあります。1890年にはボストン美術館日本美術部の初代部長に就任しています。

ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926)はボストン美術館に最も多くの作品を寄贈した人です。彼はボストンの医師で、父親も医師でボストン美術館の最初の理事も務めていました。医療の仕事に生きがいを感じる事が出来なかったビゲローは、日本の美術と文化に出会い魅了されます。1882年、ビゲローはモースと共に来日し、フェノロサと出会いました。友人や家族は日本への休暇旅行と考えていましたが滞在は7年以上になり、その後も何度も来日を重ね膨大なコレクションを形成、50,000点以上の美術品を寄贈しました。

英一蝶《涅槃図》江戸時代、1713年(正徳3年)286.8cm × 168.5cm 一幅、紙本着色           

Fenollosa-Weld Collection, 11.4221 Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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英一蝶(1652-1724)は、江戸の狩野派に学びながらも独自の風俗画を展開した絵師です。1652年に京都に生まれ、1659/1666年、江戸に下って狩野安信に師事します。20代で狩野派の画風を離れて浮世絵に強く魅かれていきます。また40代に吉原に幇間(太鼓持)として出入りして、大名・旗本の当主たちに吉原で散財させたり、遊女を身請けさせたりしたので幕府に目をつけられていたのかもしれません。46歳の時に三宅島に島流しとなりました。50代の配流中、江戸のファンから画材が届き、かなりの作品をそこで描いたようです。

英一蝶は1709年58歳の時、大赦により赦免され三宅島から江戸に帰ります。その後初めて英一蝶と名乗りました。1713年に「涅槃図」を描きます。釈迦が現世から完全なる安らぎを得た悟りの境地「涅槃」へと入られる時、生きとし生けるものが入滅を深く嘆き悲しむ様子を感情や色彩豊かに描きました。一蝶特有のユーモアあふれる表現を細部まで楽しみたい作品です。

Ⅱ 「グランド・ツアー」ヨーロッパ美術を集めたボストニアンたち
4章 フランス絵画


1892年、アメリカで初めてクロード・モネ(1840-1926)の作品だけの展覧会がボストンの中心地にある美術愛好家のクラブで開催されました。その時の作品はすべてボストン市内と近郊からのもので、モネがルーアン大聖堂の連作に着手し、ジヴェルニーの土地を購入する以前、すでに多くのモネ作品がボストンにもたらされていた事がわかります。

当時アメリカではバルビゾン派の作品は高い評価を受けていて、印象派の中でも風景を得意としたモネが好んで蒐集されたのでしょう。アメリカの美術館として、初めてモネの作品を所蔵したのはボストン美術館です。そして1911年には初めてモネの個展を開催する美術館となりました。

クロード・モネ《睡蓮》1905年 89.5cm x 100.3cm 油彩、カンヴァス Gift of Edward Jackson Holmes, 39.804

Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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ボストン美術館が一か所からまとまって寄贈を受けた印象派絵画の最大のコレクションは、ジュリアナ・チーニー・エドワーズ・コレクションです。エドワーズ家は1907年からフランス印象派の画家たちの作品に焦点を絞って、油彩画と水彩画の優れたコレクションを築きました。

エドワーズ家の寄贈の計画は1925年に公表され、モネ作品10点、ルノワール6点、ピサロ3点、その他シスレーやブーダン、ドガなどがありました。今回の展覧会では、コロー≪ボーヴェ近郊の朝≫(1855-65年頃)モネの連作で有名な≪ルーアン大聖堂、正面≫(1894年)など6点が展示されています。

また、ポスト印象派の代表的画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の≪郵便配達人ジョゼフ・ルーラン≫(1888年)と≪子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人≫が注目作品として展示されています。ゴッホはルーラン一家の肖像画を20点以上描いています。

この夫婦は、ゴッホが1888年2月にパリから移り住んだ南フランスのアルルで最も親しくした友人で、お気に入りのモデルでもありました。ジョゼフは、熱烈な政治思想をもつ共和主義者の郵便配達人でした。ゴッホは、ある特定の地方や場所や時代の人々を代表するような典型的なイメージとして彼を描きました。彼の肖像画を6点描き、本作は最初のものです。

妻オーギュスティーヌの肖像画は5点描き、本作は最後の物と考えられています。ゆりかごにつながる紐を手にした彼女は鮮やかな花々を背景に座っています。ゴッホは多くの手紙を弟テオに送っていますが、その中で、もし漁船の船室にこの絵が飾られ、孤独と危険の中にいる漁師がこの絵を見たとしたら「ゆりかごに揺られているような感じを経験し、自身がかつて聞いた子守唄を思い起こすだろう」と書いています。

左:フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達人ジョゼフ・ルーラン》1888年 81.3cm x 65.4cm 油彩、カンヴァス 

Gift of Robert Treat Paine, 2nd, 35.1982 Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

右:フィンセント・ファン・ゴッホ《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》1889

92.7cm x 72.7cm 油彩、カンヴァス Bequest of John T. Spaulding, 48.548 

Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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Ⅲ アメリカン・ドリーム自国の美術を収集するボストニアンたち
5章 アメリカ絵画


ボストン美術家は5000点以上のアメリカ美術コレクションを所蔵しています。この章では、18世紀半ばから20世紀半ばの作品に絞り、ヨーロッパ絵画からの影響を受けていた時代からアメリカ独自の表現様式へと変化していくアメリカ絵画の進化を鑑賞することが出来ます。

ワシントン・オールストン(1779-1843)は、ボストン出身でハーバード大学で教育を受けた画家です。彼は、ローマとフィレンツェに何度も行き、幻想的なイタリア風の風景として廃墟、詩的な人物像を描きました。ボストン生まれの天文学者ヘンリー・ピカリングは展示作品≪月光≫(1819年)からインスピレーションを得て、3編もの詩を書きました。

ウィンスロー・ホーマー(1836-1910)≪たそがれ時のリーズ村、ニューヨーク州≫(1876)は、田園風景を描き、柔らかな樹木や曇った空など、フランス・バルビゾン派の影響を受けているように見えます。また極端な遠近法の使用は、浮世絵版画との共通点も指摘されています。

トマス・エイキンズ(1844-1916)は、パリのアカデミズムの画家ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)に師事しました。ジェロームはフランスの画家で彫刻家、メアリー・カサットやオディロン・ルドンらも彼に学んでいます。

エイキンズは、作品のほとんどをフィラデルフィアで制作し、ヨーロッパで学んだ技術をアメリカ的な主題に用いました。アウト・ドア派だった彼は、ヨット・レースや猟などの戸外の場面を描いています。≪クイナ猟への出発≫(1874)もその一つで、デラウェア川沿いの沼地に生息するクイナ猟に出かける風景を、水平線の位置や光の角度など念入りな計算をもとに描いています。

ジョン・シンガー=サージェント(1856-1925)は、フィレンツェで生まれ、ヨーロッパ各地の都市や保養地を家族と共にまわりました。18歳のとき、フランスで肖像画家として名高いカロリュス=デュランのアトリエで学びました。1876年、20歳で初めてアメリカを訪れました。ヨーロッパ育ちでしたが、アメリカ人であることに執着していた彼は、51歳の時にイギリスからナイト爵位授与を打診されたとき、条件であったアメリカの市民権放棄を拒絶したほどです。

≪フィスク・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル≫(1903年)が描かれた当時、サージェントはアメリカとヨーロッパの両方で肖像画家として頂点を極めていました。また、この年の1月アメリカに帰国、ボストン公共図書館に壁画数点を設置、ルーズベルト大統領の肖像画をホワイトハウスで描きました。

ボストンの公共建築物の壁画や天井画に専念した頃は、肖像画の制作に興味を失い、注文を断っていたとも伝わっています。地位や権威などを威厳をもって描き、記録あるいは伝達する絵画が肖像画の役割だとしたら、本作の持つ情緒的で永遠の母子愛を感じさせる雰囲気は、新しい肖像画へのサージェントの挑戦だったのかもしれません。

ジョン・シンガー・サージェント《フィスク・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル》1903年 152.4cm x 102.5cm 油彩、カンヴァス Gift of Mrs. Rachel Warren Barton and Emily L. Ainsley Fund, 64.693 Photograph © 2017 Museum of Fine Arts, Boston

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Ⅳ 同時代の美術へ―未来に向かう美術館
6章 版画・写真


ボストン美術館に版画・素描・写真コレクションが誕生したのは1887年です。15世紀から現代に至るこのコレクションは約20万点に及びます。なかでも写真コレクションは、写真という媒体の起源から現代に至る全史を網羅しています。

チャールズ・シーラー(1883-1965)は、フィラデルフィア生まれの画家で、1910年頃から写真を始めました。≪白い納屋、壁、ペンシルヴェニア州バックス群≫(1915年頃)には、納屋の周囲をトリミングで切り取って、壁の面だけが画面いっぱいに写っていて、抽象絵画を観るようです。

アンセル・アダムス(1902-1981)は、主にカリフォルニアの山々の風景を、50年以上にわたって撮りました。彼はサンフランシスコ生まれで、生涯のほとんどをそこで暮らしました。はじめはコンサート・ピアニストになるつもりだったようですが、1920年に写真に傾倒して1930年には写真に専念します。

エドワード・ホッパー(1882-1967)は、ニューヨーク市近郊、内アックで生まれました。彼の油彩画は、それまで描かれなかった現代アメリカのリアルな生活を主題としていて、≪ナイトホークス≫(1942)は代表作のひとつです。本展ではそのホッパーの版画が展示されています。版画家としての活動は1915年から28年とわずかな期間で、とくに1918年からの5年間に集中しています。

本展のホッパー作品はその5年間に制作されたものです。繊細な線の集合で立体感や遠近感を表現する版画が多い中、強い明暗のコントラストによるドラマチックで力強いホッパー版画は、彼が好んだ真っ白なイタリア製の紙と真っ黒なイギリス製の印刷用インクを使用しています。

7章 現代美術


ボストン美術館の最も新しい部門である現代美術部は1971年に設立され、アメリカ国内だけでなく世界中で生み出された作品を収蔵しています。本展では、アンディ・ウォーホル、デイヴィット・ホックニー、サム・テイラー=ジョンソン、村上春樹の作品等が展示されています。

第二次世界大戦後、世界の経済や文化の中心はヨーロッパからアメリカに移ったと言ってもいいでしょう。ヨーロッパで培われた美術はアメリカの若者たちに引き継がれ、それまでの美術とは異なる形式・様式が誕生します。写実的に描くことや鍛錬を重ねた技術を駆使すること、あるいは絵具などそれまでの道具を使うことを離れて、コンセプトやメッセージを伝えようとする新しい美術は、私たちが自由な解釈をする猶予が大きく残されています。

私たちの生きている時代と近い社会で活動していたアーティストたちの作品と出会い、数百年後にどのような評価を得るのか、どのように語られるのか、想像するのも楽しいでしょう。

みどころは??


本展では、古代エジプト美術から、中国、日本、フランスの絵画、そしてアメリカの美術へと、時代と地域の異なった作品を鑑賞することができます。またそのジャンルは絵画だけでなく、彫刻や反場、写真、映像など多岐にわたっています。

優れた作品を収蔵する美術館を数館めぐるような体験ができる展覧会です。それぞれの時代・地域・ジャンルの見どころを楽しんで、じっくり鑑賞してください。

 





「アルチンボルド」展

会期:2017年6月20日(火)~9月24日(日)

場所:国立西洋美術館(東京・上野公園)

休館日:毎週月曜日、7月18日(火)  *ただし7月17日(月)、8月14日(月)、9月18日(月)は開館

開館時間:午前9時30分~午後5時30分(金・土曜日は午後8時まで) *入館は閉館の30分前まで

展覧会問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

アルチンボルドとは?

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593)は、16世紀後半にウィーンとプラハのハプスブルグ家の宮廷で活躍した、イタリア・ミラノ生まれの画家です。歴代の神聖ローマ皇帝たちに寵愛されました。

果物や野菜、魚や書物といったモティーフを数多く組み合わせて、寓意的な肖像画を描きました。本物そっくりに描かれたものたちがぎっしりと描きこまれ、それらは人物の上半身を構成しています。

1562年、フェルディナント1世の度重なる要請でアルチンボルドはウィーンへ赴きます。彼はその後、継承者マクシミリアン2世、ルドルフ2世と3世代26年間にわたって皇帝とオーストリア皇帝一家に仕えました。

アルチンボルドの生涯

バルトやボルドと言う語尾でおわるイタリア系の姓は南ゲルマン民族の出身者に多いそうです。アルチンボルド家はミラノの貴族で、大叔父はミラノの大司教でした。アルチンボルドが若い頃、この大叔父は彼の人生と作風に大きな影響を与えたようです。彼を通じて、芸術家や学者、作家、人文学者などと知り合う機会が与えられ、アルチンボルド独特の芸術を生むきっかけになったと考えられます。

1549年、アルチンボルドは22歳で画家としてデビューしました。父親と一緒にミラノ大聖堂のステンドグラスのデザインをしました。1551年には、王位に就く前のフェルディナントのために5つの紋章を描いています。この頃すでにアルチンボルドは有名な画家だったのでしょう。

アルチンボルドは神聖ローマ皇帝に3世代にわたり仕えました。フェルディナント(神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)とは、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の弟でスペインで生まれです。父親のフェリペは美公と呼ばれるほど人気がありました。フェリペ美公はスペイン王女でカトリック両王の娘ファナと結婚し、ファナはフランドルの宮廷でカルロス1世を生みました。当時、フェリペ美公はすでにブルゴーニュ侯国の君主でスペインの王位は魅力がなかったのかもしれません。王位認定式のためスペインに行ったフェリペ美公は妊娠している妻ファナを残しフランドルへ帰ってしまいます。その時のお腹の中の子供がフェルディナントです。フランドル育ちのカルロスが王位に就くためカルロスがスペインへ、スペイン育ちのフェルディナントはフランドルへと交代します。フェルディナントは明るくて人なつっこく気さくで人気があったそうです。

連作『四季』

アルチンボルドはフェルディナント1世の時代の1563年に初めて連作「四季」を描きます。

連作「四季」と「四大元素」とは対をなしています。≪春≫と≪大気≫、≪夏≫と≪火≫、≪秋≫と≪大地≫、≪冬≫と≪水≫です。それぞれの作品が横向きなのは、対で飾られたとき向き合うようにしたからだと考えられています。

マドリードにあるサン・フェルナンド王立美術アカデミー美術館は、4組ある「四季」のうち1563年の≪春≫を収蔵しています。この連作の≪夏≫と≪冬≫はウィーン美術史美術館が収蔵しています。本展ではマドリードの≪春≫とウィーンの≪冬≫が展示されます。また、展示作品の≪夏≫と≪秋≫は1572年に制作された作品で、デンバー美術館蔵の作品です。

今回展示される≪春≫はフェルディナント1世のためにアルチンボルドが制作したもので、フェリペ2世への贈物としてスペインに渡った可能性があるそうです。だからスペインにあるのですね。

ジュゼッペ・アルチンボルド≪春≫1563年 油彩/板 マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館蔵

© Museo de la Real Academia de Bellas Artes de San Fernando. Madrid 

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連作『四大元素』

古代から、万物を合成しているのは四つの元素であるという考えがあったそうです。そして人間の個性をつくっている気質も、これら四つの元素の支配によるものとされていて、軽くて陽気な多血質は「空気」、はげしくて怒りっぽい胆汁質は「火」、怠惰で不活発な粘液質は「水」、暗くて冷酷な憂鬱質は「土」が支配していると考えられていました。

もう少し付け加えると、これは人を支配するのは人が生まれた時の星の位置が関係あるとされていて、たとえば憂鬱質の人は土星(サトゥルヌス)の支配を受けているのです。このような星の影響によって、運命や気質や行動が決まると言う思想は、神が人間の運命を司っているというキリスト教の信仰と矛盾するため、教会は占星術を公には禁じていました。

フェルディナント1世が1564年に亡くなり、マクシミリアン2世が跡を継ぎます。アルチンボルドは宮廷画家としてとどまりました。

1564年から1576年まで、アルチンボルドは多くの作品を描いたと考えられていますが、現在観ることが出来るのはわずかな作品です。その中で1566年に制作した「四大元素」のうち≪水≫と≪火≫は現存していますが、残りの≪大地≫と≪大気≫は所在がわからないそうです。その貴重な≪水≫ウィーン美術史美術館蔵の作品が展示されます。

マクシミリアン2世の時代には、「四大元素」以外に1572年に「四季」のうちの≪夏≫と≪秋≫、そして、1574年に≪ソムリエ(ウェイター)≫を制作しました。

1569年の新年の祝賀会にアルチンボルドは「四季」と「四大元素」にフォンテオの詩を添えてマクシミリアン2世に献上しました。このことで、これらの絵が皇帝の肖像画であると考えられています。皇帝を「四大元素」と「四季」の征服者として描いています。生き物による、調和、真珠のネックレスなどを描きこみ皇帝への賛辞としたのでしょう。マクシミリアン2世は大変喜び、自分の寝室に飾ったそうです。

62種の魚類や海獣など水に関する生き物が、縮尺を無視して描きこまれています。ウニのような生物のとげによって王冠が表されています。

ジュゼッペ・アルチンボルド≪水≫1566年 油彩/板 ウィーン美術史美術館蔵

 ©Kunsthistorisches Museum, Wien

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上下絵≪コック/肉≫≪庭師/野菜≫

アルチンボルドは、コックや庭師が、絵をさかさまにすると、肉料理や器に盛られた野菜に変化する、上下どちらからも鑑賞できる絵画を制作しました。

肉や野菜の静物画として見た場合、これらの作品はイタリアにおける最初の独立した静物画です。カラヴァッジョやアンブロージョ・フィジーノはミラノ出身なので、アルチンボルドの静物画を観る機会があったと考えられます。

ジュゼッペ・アルチンボルド≪コック/肉≫1570年頃 油彩/板 ストックホルム国立美術館蔵

 ©Photo: Bodil Karlsson/Nationalmuseum

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≪法律家≫≪司書≫≪ソムリエ(ウェイター)≫

本や樽など、それぞれの職業を表すものを組み込んだ肖像画も描きました。≪法律家≫はウィーン宮廷の財政を取り仕切っていたヨハン・ウルリッヒ・ツァシウスという法学者の肖像画です。離れて観るととてもよく本人に似ていることから、皇帝や宮廷の人々に評判だったそうです

≪法律家≫は顔を鶏肉と魚で描いています。顔の特徴を食べ物に置き換えて表現したと思われますが、尊敬はしていなかったと想像がつきます。

≪司書≫は、マクシミリアン2世の周辺の人物で1554年に宮廷の歴史を記録する修史官に皇帝から任命されたウォルフガング・ラツィウスという博学の人だと言われています。彼は、皇帝の古銭コレクションや図書館も取り仕切っていたので、書物はこの人の象徴なのです。けれども知識だけで批判精神に欠けるなど当時批判されることもあったようで、「本の虫」として描かれた作品は、主知主義を風刺的に表しているのかもしれません。

≪ソムリエ(ウェイター)≫は我が国にある唯ーのアルチンボルドの作品です。この人物は、ワインを蔵で管理し、試飲、それをテーブルに出すまでの品々で構成されています。ソムリエは19世紀のフランス・パリのレストランで初めて登場する職業なので、タイトルは現代的です。ウェイターという題名は大阪市の購入時につけられていたもので、もとはロンドンの個人蔵であったものです。それ以前の来歴は解らないそうです。

胴体と腕は樽、頬は陶製の壺、額は革袋をかぶせた瓶でその注ぎ口が耳、首は籐等を編んだものをかぶせた瓶でその口が目になっています。髭と口を構成する蓋付きの容器は携帯用のグラス入れ、画面右奥の金属はコルク抜きです。髪のようにみえる灰色のものは銀製のテイスティング用の杯で、帽子の飾りには樽の注ぎ口と鉋屑のようなものがありますが、これはワインの濁りを取り除くものです。赤い帽子はワインを漉すものかもしれません。肩の皿の紋章はハプスブルグ家のスペイン王フェリペ2世のもので、首回りのリボンに「オーストリアの」「ライン地方の」といったワインの産地を示す文字が見えます。

ジュゼッペ・アルチンボルド《ソムリエ(ウェイター)》 1574年 油彩/カンヴァス 大阪新美術館建設準備室蔵

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レオナルド派の素描

アルチンボルドの父は、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子であったベルナルディーノ・ルイーニと知り合いだったそうです。レオナルドは1519年に、ルイ―二も1532年に亡くなっていて(アルチンボルド5歳)、アルチンボルドはレオナルドもルイーニも、どちらとも面識はありません。けれどもダ・ヴィンチがミラノを去るとき(1516年)、ルイーニに渡したノートとスケッチを、アルチンボルドはルイ―ニの息子を通じて見ていました。

アルチンボルド芸術の源泉になったとも言われるレオナルド派の作品が展示されます。レオナルド・ダ・ヴィンチは自然観察を大切にしたり、独特の陰影法を編み出したりと、この地の美術に大きな影響を与えました。アルチンボルドのグロテスクな横顔や空想的なイメージにレオナルドとの関連が指摘されています。

レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく《グロテスクな3つの頭部のカリカチュア》 ペン、褐色インク/紙 大英博物館蔵

©The Trustees of the British Museum

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1576年にマクシミリアン2世が亡くなり、ルドルフ2世もアルチンボルドを自分の手元で働かせました。ルドルフは奇人だったと言われていますが、美術品を好み、特に絵画や彫刻をこよなく愛し、あらゆる学問の分野にも興味を示しました。

当時のプラハはヨーロッパ文化の重要な中心地でしたし、マクシミリアン2世とルドルフ2世が拡張した「芸術品及び驚異の部屋」には、多くの珍しいものが集められていました。世界中の鳥の剥製、巨大ムラサキ貝、メカジキとノコギリエイ、宝石、新大陸アメリカからの物など、またガラスの中に閉じ込められた悪魔などもあったそうです。この「芸術品及び驚異の部屋」はアルチンボルドに大きなアイデアを与えたのではないでしょうか。

1587年に、アルチンボルドは故郷のミラノに帰る事になります。ルドルフ2世になんども催促した結果です。けれどもその後もルドルフ2世のために作品を制作します。本展ではルドルフ2世時代で、アルチンボルドが亡くなる3年前の作品≪庭師/野菜≫(1590)も展示されます。ミラノで制作されルドルフのもとへ送られたのでしょう。

観かた?

1930年代にシュルレアリストたちに再評価され、20世紀半ばを過ぎてアルチンボルドに関する論文がいくつか出版されたそうです。それらはアルチンボルドの絵画を「酒場の絵」「奇怪なもの」「戯れ」「冗談」と評価したものもあったそうです。政治や宗教の争いごとの絶えないヨーロッパにおいて、皇帝を芸術的な冗談や滑稽で喜ばせた、その為だけの絵だったのでしょうか。

アルチンボルドは高い教育を受けていました。そしてフィレンツェでプラトン・アカデミーが設立され、プラトン哲学が注目を浴び、当時を生きたアルチンボルドも強い興味を持ったことでしょう。

プラトンの基本的な概念は「永遠の神」が混沌ー天、地、惑星、小神ーからこの世を作り、またすべては四大元素―火、水、大気、大地ーから造られたというものです。

アルチンボルドが描いたたくさんの植物や動物は慎重に選ばれ、そして選んだのと同じ緊張感をもって描かれていると感じます。アルチンボルドは、全宇宙、人間、動物、植物を構成単位として、この統一で起こる思いもかけない精神性や神秘性を描こうとしたのかもしれません。

近づいてその選ばれた物たちの写実性と共通性を見つけ、また作品から離れて全体の寓意を楽しむ。現実と空想の世界が作品と私たちの距離で変化する。そんな楽しみ方をしてみませんか。

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