過去の展覧会 2017①

2017年

「アルチンボルド」展

「アルチンボルド」展

会期:2017年6月20日(火)~9月24日(日)

場所:国立西洋美術館(東京・上野公園)

休館日:毎週月曜日、7月18日(火)  *ただし7月17日(月)、8月14日(月)、9月18日(月)は開館

開館時間:午前9時30分~午後5時30分(金・土曜日は午後8時まで) *入館は閉館の30分前まで

展覧会問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

「アルチンボルド」展

アルチンボルドとは?

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593)は、16世紀後半にウィーンとプラハのハプスブルグ家の宮廷で活躍した、イタリア・ミラノ生まれの画家です。歴代の神聖ローマ皇帝たちに寵愛されました。

果物や野菜、魚や書物といったモティーフを数多く組み合わせて、寓意的な肖像画を描きました。本物そっくりに描かれたものたちがぎっしりと描きこまれ、それらは人物の上半身を構成しています。

1562年、フェルディナント1世の度重なる要請でアルチンボルドはウィーンへ赴きます。彼はその後、継承者マクシミリアン2世、ルドルフ2世と3世代26年間にわたって皇帝とオーストリア皇帝一家に仕えました。

「アルチンボルド」展

アルチンボルドの生涯

バルトやボルドと言う語尾でおわるイタリア系の姓は南ゲルマン民族の出身者に多いそうです。アルチンボルド家はミラノの貴族で、大叔父はミラノの大司教でした。アルチンボルドが若い頃、この大叔父は彼の人生と作風に大きな影響を与えたようです。彼を通じて、芸術家や学者、作家、人文学者などと知り合う機会が与えられ、アルチンボルド独特の芸術を生むきっかけになったと考えられます。

1549年、アルチンボルドは22歳で画家としてデビューしました。父親と一緒にミラノ大聖堂のステンドグラスのデザインをしました。1551年には、王位に就く前のフェルディナントのために5つの紋章を描いています。この頃すでにアルチンボルドは有名な画家だったのでしょう。

アルチンボルドは神聖ローマ皇帝に3世代にわたり仕えました。フェルディナント(神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)とは、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の弟でスペインで生まれです。父親のフェリペは美公と呼ばれるほど人気がありました。フェリペ美公はスペイン王女でカトリック両王の娘ファナと結婚し、ファナはフランドルの宮廷でカルロス1世を生みました。当時、フェリペ美公はすでにブルゴーニュ侯国の君主でスペインの王位は魅力がなかったのかもしれません。王位認定式のためスペインに行ったフェリペ美公は妊娠している妻ファナを残しフランドルへ帰ってしまいます。その時のお腹の中の子供がフェルディナントです。フランドル育ちのカルロスが王位に就くためカルロスがスペインへ、スペイン育ちのフェルディナントはフランドルへと交代します。フェルディナントは明るくて人なつっこく気さくで人気があったそうです。

連作『四季』

アルチンボルドはフェルディナント1世の時代の1563年に初めて連作「四季」を描きます。

連作「四季」と「四大元素」とは対をなしています。≪春≫と≪大気≫、≪夏≫と≪火≫、≪秋≫と≪大地≫、≪冬≫と≪水≫です。それぞれの作品が横向きなのは、対で飾られたとき向き合うようにしたからだと考えられています。

マドリードにあるサン・フェルナンド王立美術アカデミー美術館は、4組ある「四季」のうち1563年の≪春≫を収蔵しています。この連作の≪夏≫と≪冬≫はウィーン美術史美術館が収蔵しています。本展ではマドリードの≪春≫とウィーンの≪冬≫が展示されます。また、展示作品の≪夏≫と≪秋≫は1572年に制作された作品で、デンバー美術館蔵の作品です。

今回展示される≪春≫はフェルディナント1世のためにアルチンボルドが制作したもので、フェリペ2世への贈物としてスペインに渡った可能性があるそうです。だからスペインにあるのですね。

「アルチンボルド」展

ジュゼッペ・アルチンボルド≪春≫1563年 油彩/板 マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館蔵

© Museo de la Real Academia de Bellas Artes de San Fernando. Madrid 

連作『四大元素』

古代から、万物を合成しているのは四つの元素であるという考えがあったそうです。そして人間の個性をつくっている気質も、これら四つの元素の支配によるものとされていて、軽くて陽気な多血質は「空気」、はげしくて怒りっぽい胆汁質は「火」、怠惰で不活発な粘液質は「水」、暗くて冷酷な憂鬱質は「土」が支配していると考えられていました。

もう少し付け加えると、これは人を支配するのは人が生まれた時の星の位置が関係あるとされていて、たとえば憂鬱質の人は土星(サトゥルヌス)の支配を受けているのです。このような星の影響によって、運命や気質や行動が決まると言う思想は、神が人間の運命を司っているというキリスト教の信仰と矛盾するため、教会は占星術を公には禁じていました。

フェルディナント1世が1564年に亡くなり、マクシミリアン2世が跡を継ぎます。アルチンボルドは宮廷画家としてとどまりました。

1564年から1576年まで、アルチンボルドは多くの作品を描いたと考えられていますが、現在観ることが出来るのはわずかな作品です。その中で1566年に制作した「四大元素」のうち≪水≫と≪火≫は現存していますが、残りの≪大地≫と≪大気≫は所在がわからないそうです。その貴重な≪水≫ウィーン美術史美術館蔵の作品が展示されます。

マクシミリアン2世の時代には、「四大元素」以外に1572年に「四季」のうちの≪夏≫と≪秋≫、そして、1574年に≪ソムリエ(ウェイター)≫を制作しました。

1569年の新年の祝賀会にアルチンボルドは「四季」と「四大元素」にフォンテオの詩を添えてマクシミリアン2世に献上しました。このことで、これらの絵が皇帝の肖像画であると考えられています。皇帝を「四大元素」と「四季」の征服者として描いています。生き物による、調和、真珠のネックレスなどを描きこみ皇帝への賛辞としたのでしょう。マクシミリアン2世は大変喜び、自分の寝室に飾ったそうです。

62種の魚類や海獣など水に関する生き物が、縮尺を無視して描きこまれています。ウニのような生物のとげによって王冠が表されています。

「アルチンボルド」展

ジュゼッペ・アルチンボルド≪水≫1566年 油彩/板 ウィーン美術史美術館蔵

 ©Kunsthistorisches Museum, Wien

上下絵≪コック/肉≫≪庭師/野菜≫

アルチンボルドは、コックや庭師が、絵をさかさまにすると、肉料理や器に盛られた野菜に変化する、上下どちらからも鑑賞できる絵画を制作しました。

肉や野菜の静物画として見た場合、これらの作品はイタリアにおける最初の独立した静物画です。カラヴァッジョやアンブロージョ・フィジーノはミラノ出身なので、アルチンボルドの静物画を観る機会があったと考えられます。

「アルチンボルド」展

ジュゼッペ・アルチンボルド≪コック/肉≫1570年頃 油彩/板 ストックホルム国立美術館蔵

 ©Photo: Bodil Karlsson/Nationalmuseum

≪法律家≫≪司書≫≪ソムリエ(ウェイター)≫

本や樽など、それぞれの職業を表すものを組み込んだ肖像画も描きました。≪法律家≫はウィーン宮廷の財政を取り仕切っていたヨハン・ウルリッヒ・ツァシウスという法学者の肖像画です。離れて観るととてもよく本人に似ていることから、皇帝や宮廷の人々に評判だったそうです

≪法律家≫は顔を鶏肉と魚で描いています。顔の特徴を食べ物に置き換えて表現したと思われますが、尊敬はしていなかったと想像がつきます。

≪司書≫は、マクシミリアン2世の周辺の人物で1554年に宮廷の歴史を記録する修史官に皇帝から任命されたウォルフガング・ラツィウスという博学の人だと言われています。彼は、皇帝の古銭コレクションや図書館も取り仕切っていたので、書物はこの人の象徴なのです。けれども知識だけで批判精神に欠けるなど当時批判されることもあったようで、「本の虫」として描かれた作品は、主知主義を風刺的に表しているのかもしれません。

≪ソムリエ(ウェイター)≫は我が国にある唯ーのアルチンボルドの作品です。この人物は、ワインを蔵で管理し、試飲、それをテーブルに出すまでの品々で構成されています。ソムリエは19世紀のフランス・パリのレストランで初めて登場する職業なので、タイトルは現代的です。ウェイターという題名は大阪市の購入時につけられていたもので、もとはロンドンの個人蔵であったものです。それ以前の来歴は解らないそうです。

胴体と腕は樽、頬は陶製の壺、額は革袋をかぶせた瓶でその注ぎ口が耳、首は籐等を編んだものをかぶせた瓶でその口が目になっています。髭と口を構成する蓋付きの容器は携帯用のグラス入れ、画面右奥の金属はコルク抜きです。髪のようにみえる灰色のものは銀製のテイスティング用の杯で、帽子の飾りには樽の注ぎ口と鉋屑のようなものがありますが、これはワインの濁りを取り除くものです。赤い帽子はワインを漉すものかもしれません。肩の皿の紋章はハプスブルグ家のスペイン王フェリペ2世のもので、首回りのリボンに「オーストリアの」「ライン地方の」といったワインの産地を示す文字が見えます。

「アルチンボルド」展

ジュゼッペ・アルチンボルド《ソムリエ(ウェイター)》 1574年 油彩/カンヴァス 大阪新美術館建設準備室蔵

レオナルド派の素描

アルチンボルドの父は、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子であったベルナルディーノ・ルイーニと知り合いだったそうです。レオナルドは1519年に、ルイ―二も1532年に亡くなっていて(アルチンボルド5歳)、アルチンボルドはレオナルドもルイーニも、どちらとも面識はありません。けれどもダ・ヴィンチがミラノを去るとき(1516年)、ルイーニに渡したノートとスケッチを、アルチンボルドはルイ―ニの息子を通じて見ていました。

アルチンボルド芸術の源泉になったとも言われるレオナルド派の作品が展示されます。レオナルド・ダ・ヴィンチは自然観察を大切にしたり、独特の陰影法を編み出したりと、この地の美術に大きな影響を与えました。アルチンボルドのグロテスクな横顔や空想的なイメージにレオナルドとの関連が指摘されています。

「アルチンボルド」展

レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく《グロテスクな3つの頭部のカリカチュア》 ペン、褐色インク/紙 大英博物館蔵

©The Trustees of the British Museum

1576年にマクシミリアン2世が亡くなり、ルドルフ2世もアルチンボルドを自分の手元で働かせました。ルドルフは奇人だったと言われていますが、美術品を好み、特に絵画や彫刻をこよなく愛し、あらゆる学問の分野にも興味を示しました。

当時のプラハはヨーロッパ文化の重要な中心地でしたし、マクシミリアン2世とルドルフ2世が拡張した「芸術品及び驚異の部屋」には、多くの珍しいものが集められていました。世界中の鳥の剥製、巨大ムラサキ貝、メカジキとノコギリエイ、宝石、新大陸アメリカからの物など、またガラスの中に閉じ込められた悪魔などもあったそうです。この「芸術品及び驚異の部屋」はアルチンボルドに大きなアイデアを与えたのではないでしょうか。

1587年に、アルチンボルドは故郷のミラノに帰る事になります。ルドルフ2世になんども催促した結果です。けれどもその後もルドルフ2世のために作品を制作します。本展ではルドルフ2世時代で、アルチンボルドが亡くなる3年前の作品≪庭師/野菜≫(1590)も展示されます。ミラノで制作されルドルフのもとへ送られたのでしょう。

観かた?

1930年代にシュルレアリストたちに再評価され、20世紀半ばを過ぎてアルチンボルドに関する論文がいくつか出版されたそうです。それらはアルチンボルドの絵画を「酒場の絵」「奇怪なもの」「戯れ」「冗談」と評価したものもあったそうです。政治や宗教の争いごとの絶えないヨーロッパにおいて、皇帝を芸術的な冗談や滑稽で喜ばせた、その為だけの絵だったのでしょうか。

アルチンボルドは高い教育を受けていました。そしてフィレンツェでプラトン・アカデミーが設立され、プラトン哲学が注目を浴び、当時を生きたアルチンボルドも強い興味を持ったことでしょう。

プラトンの基本的な概念は「永遠の神」が混沌ー天、地、惑星、小神ーからこの世を作り、またすべては四大元素―火、水、大気、大地ーから造られたというものです。

アルチンボルドが描いたたくさんの植物や動物は慎重に選ばれ、そして選んだのと同じ緊張感をもって描かれていると感じます。アルチンボルドは、全宇宙、人間、動物、植物を構成単位として、この統一で起こる思いもかけない精神性や神秘性を描こうとしたのかもしれません。

近づいてその選ばれた物たちの写実性と共通性を見つけ、また作品から離れて全体の寓意を楽しむ。現実と空想の世界が作品と私たちの距離で変化する。そんな楽しみ方をしてみませんか。

「バベルの塔」展 終了しました。

会期:2017年4月18日(火)~7月2日(日)
場所:東京都美術館 企画展示室(東京上野公園)

ピーテル・ブリューゲル1世とは?

16世紀フランドルの風俗画を代表する巨匠はピーテル・ブリューゲル1世(1526/30-69)です(以下ブリューゲルと表記)。ブリューゲルが力を注いだジャンルは、農民の生活を描いた風俗画でした。そのため、彼はフランドルの農民だと誤解されたこともありました。実は都会派の画家です。

ブリューゲルはネーデルラントに生まれました。1540年代、アントウェルペン(アントワープ)のピーテル・クック・ファン・アールストの工房に弟子入りし修業に励み、後に彼の娘と結婚、二男一女に恵まれます。長男は父と同じ名前のピーテル・ブリューゲルで、偉大な父の作品をコピーすることで生涯を費やします。弟のヤン・ブリューゲルは「花のブリューゲル」と呼ばれ、ルーベンスとのコラボ作品も残されている花を得意とした画家です。

1551年に聖ルカ組合に画家として登録、1552年頃イタリアに絵画を学びに向かいます。フランスのリヨン経由でアルプスを越え、イタリアに行きました。彼の故郷は「低地」ですが、作品の多くに山々が描かれています。それは、イタリアへ向かうときに見たアルプスの景色だと言われています。1554年にアントウェルペンに戻りました。

ネーデルラント美術とは?

本展覧会は、15世紀末から16世紀にいたるネーデルラント美術を詳しく観ることのできる展示となっています。ネーデルラントとは「低地の国々」という意味で、現在のベルギーとオランダにまたがる地域です。この地域で14世紀末から16世紀末にかけて発展した美術をネーデルラント美術と呼びます。

14世紀末から15世紀にかけてを「初期フランドル美術」、16世紀の神聖ローマ帝国(現ドイツ)とその周辺で描かれた絵画を「北方ルネサンス美術」と呼ぶこともあります(ややこしいので、ここではネーデルラントで統一します)。

ブリューゲルがアントウェルペンとブリュッセルで活躍していた1560年代は、圧制者アルバ公がネーデルラントに乗り込んできた時代です。スペインの第3代アルバ公爵であるフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507-1582)は、1535年以降プロテスタント打倒を掲げたカール5世のために、またカール5世退位後はフェリペ2世に仕え、属州であるネーデルラントの総督となりました。「血の審問所」と呼ばれた機関で多くのプロテスタントを処刑しました。

ブリューゲルの産まれたネーデルラントは、オーストリアやフランス、スペインのような絶対君主による統治・支配ではなく、市民が力をあわせて毛織工業や海上貿易を営み繁栄していました。近隣の君主たちはこの地方の利権を我がものにしようとしていました。

当時のヨーロッパはオーストリアとスペインに分かれたハプスブルク家が大きな力を持っていて、スペイン・ハプスブルク家はカトリック教会の熱心な信者でした。1516年、マルチン・ルターによる95ヶ条の論題から始まった宗教改革はネーデルラントにも広がり、新しいプロテスタント教会へ改宗したネーデルラントの人々は、ハプスブルグ家のスペイン王から激しい迫害をうけたのです。

1566年、アルバ公を指揮官とする一万人の部隊がネーデルラントに派遣されました。翌年、プロテスタント教会の信徒たちは、武力による反乱を起こし、何年も続いた戦いはイギリスの支援を受け、ネーデルラント北部は1581年にスペインからの独立を宣言しました。プロテスタント教徒が多く住む現在のオランダにあたる北部の地域は独立を宣言できましたが、カトリック教徒が多かった南部、現在のベルギーはスペインの支配下に残ったのです。

1520年代初頭から始まった弾圧は、カール5世からフェリペ2世に引き継がれ、ブリューゲルが油彩画を描き始めたころはフェリペ2世の弾圧の時代でした。本展で展示されている≪バベルの塔≫はアルバ公の大軍に対抗してネーデルラントのプロテスタントが反乱を起こした1568年頃の作品です。

油彩画について

油絵大成したのはネーデルラントです。15世紀初頭にファン・エイク兄弟が油彩画の技法を確立しました。それまでは、生乾きの漆喰の上に直接描くフレスコ画や板に描くテンペラ画が主流でした。どちらも顔料を使うのですが、フレスコ画は漆喰が顔料を定着させる糊の役目をし、テンペラは顔料と卵や卵黄に油や水を混ぜたものを練って描きました。

フレスコ画は発色がいいのですが、やり直しができません。テンペラ画は発色が良く、耐久性にも優れ、乾きが早いという長所がありましたが、顔料を薄くのばしたり、画面上で色を混ぜたり、あるいはふき取ったりといった生乾きだからこそできる技が使えませんでした。

油絵具は乾きが遅い分、グラデーション表現が出来ましたし、また厚塗りができることもあって、現在の油彩画の特徴である立体的な表現が可能となりました。

また、油彩画に使用する亜麻仁油がネーデルラントではたいへん上質なものが収穫できたそうです。細かな表現ができたのも質の高い油絵具のおかげなのです。

Ⅰ 16世紀ネーデルラントの彫刻

15世紀、16世紀のネーデルラント絵画に比較して、同時期の彫刻が話題になることは少ないかもしれません。けれどもその量・質ともたいへん高い作品が残されています。木彫については、数千単位の作品の存在が知られているそうです。

ユトレヒト、ブリュッセル、アントウェルペンには大規模な彫刻工房があり、ほとんどの教会には、ひとつ以上の木彫の祭壇が備えられていました。ポーランドやスウェーデンなど国外の注文にも応えていたそうです。彼らの名声が現代に伝わっていない理由は、多くの作品が署名されておらず作者不明だからかもしれません。

そのなかでアドリアーン・ファン・ウェーセルはネーデルラントの木彫家のなかで、作品を同定できる数少ないひとりであり、最もよく知られた存在です。彼は大きな工房を経営し、子弟を何人も抱えていたと考えられています。彼の作風に強く影響を受けた作品も多かったでしょう。

アドリアーン・ファン・ウェーセル周辺の彫刻家による≪受胎告知の聖母≫1460年頃(作品番号6)には、知らせを届ける大天使ガブリエルが彫られていないので、この作品は祭壇を飾った彫刻の一部だとも考えられます。彩色されていた時の色彩も失われています。それでも、柔らかなポーズ、身体に沿った衣服の襞など、聖母の驚きと戸惑いを私たちに伝える貴重な木彫作品です。

Ⅱ 信仰に仕えて

15世紀、16世紀の絵画の主題は宗教に関するものが主でした。キリスト教は偶像崇拝を認めていませんでしたが、文字を理解できない人たちにとっては図像は大変便利なものでしたし、主はイエスという「人の子」を介して教えを伝えようとしたのですから、目に見える図像を使った布教も正しいと当時の教会は考えました。

中世のキリスト教絵画では、画家の個性を表現するよりも伝統的で定型の図像が教会から指導されました。けれども15世紀以降、画家たちは独自の解釈で宗教絵画を描こうと考え始めます。誰が描いたのかが分かることも大切にされるようになって、作品に署名をする画家も現れました。

本章では、上質な油絵具による細部の入念な描写と筆跡の無い滑らかな描法による、宝石や金属、肌や髪、衣服の素材の描き分けなどが見事な作品を鑑賞することが出来ます。

ディーリク・バウツの≪キリストの頭部≫1470年頃(作品番号8)は裕福な貴族か市民、あるいは聖職者の私室に掛けられたものだと考えられています。キリストと同時代に生きたとされるローマの執政官ブブリウス・レントゥルスの手紙に記されているキリストの容貌は「額が広く、焦げ茶の髪を真ん中で分け、左右に分かれた短い髭を蓄え、目は灰青色だった」と書かれ、バウツはこの記述を克明に描きました。目だけは青でなく茶色です。襟を飾る真珠や宝石、金糸の刺繍の表現も見逃せません。

このような私的な礼拝用として描かれたサイズの小さめの作品は、無傷で保存された可能性が高いそうですが、展示されている作品の中には、≪アレクサンドリアの聖カタリナの論争≫(作品番号12)≪聖カタリナ≫(作品番号13)≪聖バルバラ≫(作品番号14)といった切り分けられたり分解されたりしてしまった作品が今に伝わるものもあります。

「バベルの塔」展

ディーリク・バウツ≪キリストの頭部≫ 1470年頃 油彩、板 Museum BVB, Rotterdam, the Netherlands

Ⅲ ホラント地方の美術 コルネリス・エンゲブレフツ、ルカス・ファン・レイデン、ヤーコプ・コルネリスゾーン・ファン・オーストザーネン

オランダの中心部はホラント地方と呼ばれています。日本語のオランダという地名はここからきています。15世紀までネーデルラントはカトリック信者が多い南部が繁栄していましたが、16世紀の初め、ホラント地方の最大の都市レイデンを中心に特異な個性の絵画が形成されてきます。

コルネリス・エンゲブレフツはレイデン出身の画家で、彼の画風は南ネーデルラントにある当時のアントウェルペンの強い影響を受けていました。弟子のルカス・ファン・レイデンもこの都市の出身で、初めて国際的な名声を博しました。

ルカス・ファン・レイデンは早熟の天才で≪ヨセフの衣服をみせるポテパルの妻≫1512年頃(作品番号23)は10代の時の作品です。

「ヨセフとポテパルの妻」は旧約聖書の創世記の物語です。ヨセフの父イスラエルは、どの兄弟よりもヨセフを可愛がるので兄弟たちに憎まれていました。そして、兄弟たちがヨセフにひれ伏す夢を見たと彼らに語った事でますます嫌われ、兄たちに穴に投げ入れられてしまいます。彼を発見したミディアン人によりエジプトに向かうイシュマエル人の隊商に売られ、ヨセフはファラオの宮廷の役人で侍従長のエジプト人ポテパルに買われます。ポテパルはヨセフを信頼し、全財産をヨセフの手に委ねるようになりました。

ポテパルの妻は、美しく身体も優れたヨセフに言い寄りますが拒絶されてしまいます。彼女はヨセフに強姦されそうになったと夫に訴え嘘をつきます。作品ではうろたえて後ずさりするポテパルと証拠の服を見せる妻が主役に描かれています。二人の後ろにいる人々は、妻の召し使いたちと考えられますが、彼らは私たちに「嘘が見抜けるか?」と問うているようです。

左の窓越しに、二人の男に連行されるヨセフが描かれています。背後の浮彫装飾は、知恵の実を食べるようアダムを誘惑するエバと、不安定な球体に乗り、羽根の生えた靴を履き、そこの抜けた壺を持つ運命の女神フォルトゥーナの姿です。愛の欺瞞と浮気心、そして愛の危うさを表しているのでしょう。

「バベルの塔」展

ルカス・ファン・レイデン≪ヨセフの衣服を見せるポテパルの妻≫ 1512年頃 油彩、板 Museum BVB, Rotterdam, the Netherlands

Ⅳ 新たな画題へ

16世紀に入り、多くの画家たちは宗教画以外の主題を描くようになります。風俗画、風景画、静物画です。それまでにも風景は絵画に描かれてきましたが、それは宗教画の中の聖なる風景として聖母や救い主の背景に描かれました。また、≪風景の中の聖母子≫1480年頃(作品番号29)の裏側には静物が描かれ、ハンス・メムリンクの二連あるいは三連祭壇画の右側のパネルには馬二頭と猿が描かれ、その扉絵は≪風景の中の二頭の馬≫1490年頃(作品番号)として展示されています。

1510年頃、ヨアヒム・パティニールは宗教的主題と聖なる風景のバランスを逆転させた作品を描きます。たとえば≪ソドムとゴモラの滅亡がある風景≫1520年頃(作品番号32)に描かれているロトと娘たちそして塩の柱になってしまったロトの妻は、右端に小さく描かれています。この作品は聖書の物語を伝える宗教画というより、神が降らせた硫黄に焼かれ燃え盛る町ソドムとゴモラの情景が主役です。

「ソドムの滅亡」は創世記19章の物語です。主は、邪悪な人々が住むソドムとゴモラ両都市の上に硫黄の火を降らせ滅ぼします。正しい行いのロトとその家族は御使いたちによって救われます。逃れるとき決して振り返ってはいけないと言われるのですが、ロトの妻は振り返ってしまい、塩の柱となってしまうという話です。

作品では滅びるソドムとゴモラは真っ赤な炎の海として描かれています。右の端に小さく、御使いの天使に誘われてロトの一家が逃げています。右奥のテントでは、この物語の続きが描かれています。都市の滅亡により子種が絶えてしまったと思ったロトの娘たちは、父にワインを飲ませ誘惑、父と情を通じ子を得ようとするのです。

本作はパティニールを敬愛したデューラーが所有していたのではないかとも考えられています。

「バベルの塔」展

ヨアヒム・パティニール≪ソドムトゴモラの滅亡がある風景≫ 1520頃 油彩、板 Loan Netherlands Cultural Heritage Agency,Rijswijk/Amersfoot,on,loan to Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

Ⅴ 奇想の画家ヒエロニムス・ボス

ヒエロニムス・ボスは本名ヒエロニムス・ファン・アーケンです。ブランバント地方のスヘルトーヘンボスの町にいる画家であることを人々に分かってもらうために名前を改めました。自作に署名をした最初のネーデルラント出身の画家のひとりでもあります。

ボスの作品の多くは同時期の画家同様、キリスト教の物語にまつわるものです。主題はキリストの受難や聖人たちですが、ボスの絵画は無数の奇怪な生き物たちによって独創的な世界が展開されています。

≪聖クリストフォロス≫1500年頃(作品番号42)には、家として描かれた瓶が木からぶら下がっていたり、背景の廃墟からに奇妙な竜が覗いていたり、ボス独特の表現が描きこまれています。

巨人レプロブスは危険な川を渡る旅人を背負い対岸に送り届けることで、世界で最も力のある人物を見つけ仕えることを望んでいました。ある日小柄な少年を背負いましたが、徐々に彼の体重は重くなったのでレプロブスがどうしてこんなに重いのかと問うと「世界と世界の創造者を共に背負ったから」と答えました。巨人はキリストを背負う者という意味のクリストフォロスと名を改めました。

ギリシャ語で魚はイクトゥス、「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べるとイクトゥスとなり、古代、魚はイエスを表す図像でした。杖に吊るされた魚は血を流しています。これはキリストの磔刑を暗示しています。射殺された熊が木に吊るされようとしていて、狐の死骸も見えます。悪に対する勝利を表しているのでしょうか。

「バベルの塔」展

ヒエロニムス・ボス≪聖クリストフォロス≫ 1500年頃 油彩、板 Museum BVB Rotterdam, the Netherlands(Koenigs Collection)

またボスは、キリスト教以外の主題である人々の日々の暮らしを描いた最初の画家の一人でもあります。長く続いた宗教絵画の時代から風俗画が描かれるようになったきっかけは、本展でも紹介されるヒエロニムス・ボスの存在が大きく、彼が登場することで、風俗画や風景画など新しいジャンルが画家たちに広がり、そんな中でブリューゲルが独自の画風を築き上げました。

≪放浪者(行商人)≫1500年頃(作品番号41)はボスの作品ですが、聖書の物語でも聖人の物語でもなく日常生活が主役です。猫の皮と木の杓を商い、靴の修繕も請け負う行商人を描いています。服はほころびていて、左右不揃いの靴を履いています。貧しいこの人物の背後には娼家が見えます。彼はここから出て来たのか、そそくさと通り過ぎようとしているのかは解りません。

最新の解釈では、行商人は男性一般を指し、男は誰でも人生を歩む一歩ごとに判断しなければならず、またありとあらゆる誘惑にさらされることを表しているそうです。もともと三連画の両翼の外側に描かれた二枚の絵だったそうで、切り取られこのような1枚の絵画として存在しています。この主題が単独で語られる価値があると考えたのかもしれません。円形なのは、鏡を模しているとすれば、私たちの姿を写しているとも思えます。

Ⅵ ボスのように描く

1516年にボスは亡くなりますが、彼の工房はしばらく続き複数の作品が制作され、死後もその画風は強い影響を持ちます。16世紀以降に入っても、かなりの期間「ボスっぽい」作品は描かれたようです。

ボス自身は、実は版画を一度も手がけませんでした。けれども同時代、同街に暮らした、アラールト・デュアメールがボスの想像力から生まれた主題やモチーフで版画を制作したことは良く知られているそうです。ボス風版画は1550年代以降のもので、没後50年を過ぎてボス・リバイバルが本格化しました。

このことに貢献したのが版元のヒエロニムス・コックで、創案者としてボスの名前が記されていましたが、それらの作品を仕上げたのは、ピーテル・ファン・デル・ヘイデンやファン・ドゥーテクム兄弟などの銅版画製作者、またピーテル・ブリューゲルも重要な版画制作者でした。

Ⅶ ブリューゲルの版画

ブリューゲルはイタリアに絵画の修業に行ったのですが、その影響は少ないと言われています。彼がイタリアから戻ってから、アントウェルペンの版画業者ヒエロニムス・コックが刊行する版画集の下絵を多く描きました。コックはいち早くブリューゲルの才能を見抜いたのかもしれません。ブリューゲルが制作した版画は、その頃人気だったヒエロニムス・ボスの絵を版画にした作品だったので、彼はボスに大きな影響を受けました。

コックはブリューゲルに「ボス風」の下絵を描くことを求め、それに答えたブリューゲルは「第二のヒエロニムス・ボス」と言われるようになりました。

ブリューゲルは下絵を考案しましたが、ほとんど制作には関与しませんでした。エッチングの≪野ウサギ狩り≫1560年頃(作品番号76)だけがブリューゲルが版画制作の全工程を担った作品です。

≪大きな魚は小さな魚を食う≫1557年(作品番号66)は、諺を絵画にしています。大きな魚が中央に横たわり兵士が特大のナイフで腹を切り裂いています。その胃からは食べられた小さな魚が姿を見せています。手前の舟に乗っている父親は息子に、大きな魚は小さな魚を食うことを教え、子供は理解したことを告げるため指を指します。その先には別の魚がもう一人の男によって腹を裂かれています。

「バベルの塔」展

ピーテル・ブリューゲル1世 彫版:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン≪大きな魚は小さな魚を食う≫ 1557年 エングレーヴィング Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

Ⅷ 「バベルの塔」へ

ブリューゲルの代表作の一つは≪バベルの塔≫でしょう。「バベルの塔」とは旧約聖書の創世記の物語に登場します。人々は天に届くほど高い塔を建て、名を上げようとします。思い上がった人々に対し主は大変腹をたてます。

創11章:主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、かれらが何を企てても、妨げることが出来ない。我々は降りて行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主はかれらをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

1563年に描いた≪バベルの塔≫はウィーン、美術史美術館にあります。本展のロッテルダム、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵はウィーンの約半分の大きさですが、ウィーンの作品にはない新たな挑戦を試みています。まず地平線を低くすることで、威圧感をアップしています。またウィーンの作品は自然の岩石で作られていますが、ボイマンス美術館蔵の「バベルの塔」は人の手で焼いた煉瓦で建てられています。このことによって人の傲慢さを強調しているのです。

また、クレーンにより建材を持ち上げているところ、木枠によるアーチの架構作業、さまざまにデザインされたアーチ、大量に搬入された煉瓦、波止場での煉瓦の陸揚げ、村の煉瓦窯と煉瓦置き場など、バベルの塔の周辺が詳細に描かれています。

低層部の煉瓦は風雨にさらされて灰色ですが、最上部は鮮やかな赤です。このことは工事が大変長く続いていることを表しています。この塔は完成することなく人々はバラバラにされてしまいます。ブリューゲルは、カトリックとプロテスタントに分断されてしまうネーデルラントの運命に重ねたのかもしれません。

またこの場面は、ちりぢりになってしまう直前の統一された人類の姿と見ることもできます。ひとつになって同じ目的のために労働している姿をこのまま続けていくにはどうしたらよかったのでしょう。現代にも通じるお話しとして考えてみたい作品でもあります。

「バベルの塔」展

ピーテル・ブリューゲル1世≪バベルの塔≫ 1568頃年 油彩、板 Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

 鑑賞ポイント

オランダを代表する美術館の一つであるボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館から、ピーテル・ブリューゲルの≪バベルの塔≫24年ぶりの来日です。日本でも大変人気のある画家ですが、世界に現存する油彩画は40点余りで、鑑賞できる機会は大変貴重です。

また、ヒエロニムス・ボスの≪放浪者(行商人)≫と≪聖クリストフォロス≫も日本初公開で、ボスもまたブリューゲル以上に希少で、展覧会の出展が非常に難しい画家のひとりです。

庶民の生活を描いた風俗画や景色が主役の風景画などを描いたネーデルラントの作品は、それまでの宗教画や肖像画とは異なった親しみやすさを持つとともに、私たちに「してはいけないこと」を教えてくれています。

15世紀末から16世紀にかけてのネーデルラントの絵画史の流れを知るとともに、作法や体裁にとらわれない新しいジャンルの絵画、そこに暴かれた人間の愚かさや弱さを見つけていきましょう。ユーモアたっぷりに表現されたネーデルラントの絵画の中に込められたメッセージを受け止めながら鑑賞したい展覧会です。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」 終了しました。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

会期:2017年3月28日(火)~5月21日(日)
場所:東京藝術大学大学美術館(上野公園)

室町時代は、それまでの日本にみられなかった新しい絵画様式が登場し、芸術界を席巻しました。それは水墨画です。母体である禅宗という自らの中に仏を見出そうとする仏教が中国からもたらされて、中国宋時代の芸術への強い憧れを持って流行しました。

15世紀の詩画軸全盛時代は中国的要素の強い作品が制作され、その後雪舟が登場して日本の水墨画が確立していきます。墨一色で描き、しかも描かれない部分に画者の秘めた感情が宿り、観る者は画家と同じように画中に感情移入することによって初めて真情を理解できるとする水墨画は、雪舟により和様に転じます。それまでの観念的な作画から「写生」という絵画本来の在り方が導入されたのです。

中国画の表現に学んだ初期水墨画から、雪舟が和様の水墨画を確立、その後の16世紀の中盤以降に室町時代の水墨画としての結末、また続く近世を予感させる水墨画を描いたのが雪村です。雪村は雪舟を敬愛していましたが、自らの画風が雪舟と異なることを『設門弟資云』に書き残しています。

戦国武将の一族に生まれ雪舟を慕い、京都に一度も赴くことなく東国で活躍した雪村は、動感のあるドラマティックな水墨画を描きました。

その独創的な画風は、尾形光琳や狩野芳崖ら近代の画家たちにも大きな影響を与えました。

≪雪村とは?≫

雪村周継(せっそんしゅうけい)は、生年は定かではありませんが、1489から1492年の間に常陸国(現在の茨城県常陸大宮市)で武家の一族に生まれました。父親が雪村よりも庶子に家督を継がせようとしたため、自ら出家して禅僧となりました。もともと画が好きな雪村は、雪舟の筆法を慕い私淑していました。常陸時代は、画僧雪村が誕生する第1期目の修業時代にあたり、誕生から雪村画の一旦の完成までの重要な時期です。

1546年(50代)までに常陸を出発、会津へ向かいます。会津で蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を伝授、鹿沼の今宮神社に神馬図を奉納します。その後、佐野、足利をまわり小田原、鎌倉へ向かったとも考えられています。小田原・鎌倉滞在期が第2期目で、中国の牧谿や玉澗を学び、大きく飛躍した時代です。

1560年頃(60代半ば)、小田原・鎌倉を離れ再び会津を訪れ、70歳の頃には三春で制作を行っていたとされています。第3期は雪村芸術の絶頂期です。

1573~1590年、およそ86歳で≪瀟湘八景図屏風≫(茨城県歴史館蔵)を描きます。その後まもなく三春で亡くなったと考えられています。

1章 常陸時代 画僧として生きる

常陸国の部垂(へたれ)に佐竹氏の一族として生まれた雪村は、幼くして佐竹氏の菩提寺で夢窓疎石を開山とする正宗寺に入り修行し、そこで多くの絵画に出会いました。

常陸での修行時代と小田原・鎌倉に至るまでに描いた作品を紹介する本章では、修業した正宗寺に所蔵され雪村の画僧としての出発点のひとつ≪滝見観音図≫(作品番号12:4月23日まで展示)(茨城:正宗寺蔵)や常陸時代の後半に構えた下村田のアトリエで描かれた≪夏冬山水図≫(作品番号28:4月23日まで展示)(京都国立博物館蔵)、≪風濤図≫(作品番号29:展示期間4月25日~5月21日)(京都・野村美術館蔵)などの傑作が展示されます。

≪風濤図≫は、小品ながら大自然に立ち向かう気迫みなぎるダイナミックな作です。大自然の猛威を表現した本作は、日本画の枠を超えた印象を持っています。

左下から右上に吹きすさぶ激しい風雨に、左下の樹木と竹は大きくしなっています。家の屋根もひしゃげているようです。荒れ狂う波と闘っている小船の帆も風をいっぱいに受け、船体は波と共に斜めに傾いて描かれていて、必死に自然の驚異と闘っている様子が伝わってきます。雪村の「運命と闘う孤独」を絵画に込めたと感じる人も少なくないでしょう。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

雪村筆≪風濤図≫ 重要文化財 1幅 22,1×31,4㎝ 京都・野村美術館蔵 (展示期間:4月25日-5月21日)

章 小田原・鎌倉滞在 独創的表現の確立

50代半ばの頃、雪村は常陸を離れ会津を訪れます。守護大名蘆名盛氏(あしなもりうじ)に古画の鑑賞法を授けたと伝わっています。後に小田原・鎌倉へ向かいます。小田原では、北条氏と大徳寺(京都)とのつながりから育まれた文化の恩恵を受けました。この時期雪村は、北条氏が集めた中国絵画や鎌倉の禅宗寺院に伝来する中国文物などの作品を学び、画技の幅が大きく広がりました。

≪瀟湘八景図巻≫(作品番号32:展示期間中巻き替えあり)(大阪・正木美術館蔵)は、墨で描いた界線の中に瀟湘八景が描かれています。「瀟湘八景」とは、瀟水と湘水が合流して注ぐ中国の洞庭湖付近でみられる八つの情景です。中国では北宋時代から描かれていて、日本では室町中期以降に愛好された画題のひとつです。

本作では、瀟湘八景の八種類の景色は山間の人里を描いた山市晴嵐(さんしせいらん)で始まり、遠く雁が連なる平沙落雁(へいさらくがん)、おぼろげな月が浮かぶ洞庭秋月(どうていしゅうげつ)、直線的な雨が降る瀟湘夜雨(しょうしょうやう)、ひときわ高い山の上に立派な伽藍を描く煙寺晩鐘(えんじばんしょう)帆を下ろした舟が岸辺にとまる遠浦帰帆(えんぽきはん)、綱を干す砂洲に夕暮れがやってくる漁村夕照ぎょそんせきしょう)、全てが雪に埋もれる江天暮雪(こうてんぼせつ)の順に描かれています。

≪琴高仙人・群仙図≫(作品番号38:展示期間4月25日~5月21日)(京都国立博物館蔵)は、『列仙伝』の琴高のエピソードを描いています。琴高は弟子たちに、龍の子をもってくるといい涿水に入りました。約束の日に弟子たちと多くの見物人が集まる中、鯉に乗った琴高が涿水から現れたというお話しです。本作は三幅で、中幅に巨大な鯉に乗って川から飛び出した琴高を、左右幅にそれを見守る弟子たちを描いています。顔は細線で、衣は淡墨と打ち込みの強い濃墨の線を組み合わせて描かれていますがこれは雪村作品に多く見られる手法です。よく見ると右幅の従者らしき童子は琴高を見ずに私たちに視線を向けています。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

雪村筆≪琴高仙人・群仙図≫ 重要文化財 3幅のうち右幅のみ 121,0×56,0 京都国立博物館(展示期間:4月25日-5月21日)

章 奥州滞在 雪村芸術の絶頂期

60代半ば頃、鎌倉を離れた雪村は会津を再び訪れ、70歳の頃には三春で制作活動を行ったとされています。雪村はこの頃、生涯の中でも多くの力作、大作を世に残しました。

≪呂洞賓図≫(作品番号49:4月23日まで展示)(奈良・大和文華館蔵は、この時代の代表作で、彼の奇想を決定的に印象付ける作品です。雪村の人物図には仙人や道教の人物が多いのです。

龍の頭の上で両手を広げて頭をのけぞらせるように天空を眺め龍を威嚇しています。その頼もしい背中は激しく風にひるがえる衣によって、より動じない力強さを感じさせています。ひげや衣紋、波頭などがそれぞれ独立した方向にダイナミックに動いていて、呂洞賓が起こした風なのか、彼を中心とした風の渦が仙人の不思議な力を表現しています。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

雪村筆≪呂洞賓図≫ 重要文化財 1幅 119,2×59,6㎝ 奈良・大和文華館蔵 (展示期間:4月23日まで)

章 身近なものへの眼差し

雪村作品の中には、身近な動植物を題材にしたものが数多くあります。奇想の画家とは一線を画した繊細で細やかな作品は常陸時代から晩年まで描かれ、雪村のやさしい眼差しを感じることが出来ます。

ここでは、院体画風の花鳥画や牧谿風の蕪図、また雪舟風の花鳥図など雪村の学習を示す作品だけでなく、やや誇張された白鷺の≪竹に鷺図≫(作品番号76:展示期間4月25日~5月21日)(神奈川県立歴史博物館蔵)や、とぼけた顔でこちらを見るカマキリが描かれた≪菊竹蟷螂図≫(作品番号77:展示期間4月25日~5月21日)も楽しい作品です。

日常に何気なく存在する身近なものを描いた作品は、物語や逸話よりも雪村の筆を十分観察することのできる画題だともいえます。勢いのある濃墨で描かれた細い竹の葉と鷺の嘴、柔らかでふっくらとした淡墨の雀など、雪村の筆技も楽しんでください。

章 三春時代 筆力衰えぬ晩年

雪村は、70代の時に福島・三春に住みました。晩年を過ごした「雪村庵」を拠点に活動し、また各地を往来して制作活動を続けました。およそ86歳という年齢にかかわらず筆力は最後まで衰えることなく描き続けた晩年の作品が第5章です。

晩年に描いた≪自画像≫(作品番号106:展示期間5月9日~5月21日)(奈良・大和文華館蔵)は、山水を背景にしています。雲のかかる満月が雪山の上に昇っていて、袈裟をまとい両手で如意を持つ老僧が履物を脱いで竹製の座椅子に座っています。眼光は鋭く、自負に満ちた姿のようですが、背景の風景の方が存在感があるとも感じられます。自然の大きさにはかなわないという意味を含んでいるのでしょうか。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

雪村筆≪自画像≫ 重要文化財1幅 65,2×22,2cm 奈良・大和文華館蔵 (展示期間:5月9日ー5月21日)

章 雪村を継ぐ者たち

雪村の作品は、同時代の画家や弟子たちに影響を与えましたが、雪村派をつくるには個性的すぎたとも言われています。その雪村の個性は、時代を隔て多くの画家たちを魅了しました。

尾形光琳は雪村を深く敬愛しました。尾形光琳といえば琳派の大成者で、きらびやかな作風で知られていて、雪村の画風とは接点が無いように感じますが、光琳は雪村の作品をいくつも模写しています。また、光琳が所持していた画印に「雪村」印作品番号10:展覧会期間中展示)があり、光琳が雪村に私淑していたことがわかります。光琳の代表作≪紅白梅図屏風≫(京都国立博物館蔵)と雪村の≪欠伸布袋・紅白梅図≫(作品番号44:展覧会期間中展示)(茨城県立歴史館蔵)を比較する展示がされています。(≪紅白梅図屏風≫をプリントしたものが展示されています)全体の構図、梅の枝ぶりなど興味深いことに共通点が見出されるのです。

また近世では狩野派の絵師たちが雪村画を粉本として継承、明治になって岡倉天は雪村を美術史的に再評価、同時代の狩野芳崖橋本雅邦らが、狩野派を脱して新たな日本画の創出する際に積極的に雪村を研究しました。

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

橋本雅邦筆 ≪昇龍図≫1幅 112,7×41,5㎝ 埼玉・山崎美術館蔵(展示期間:4月23日まで)

 鑑賞ポイント

5年前から準備され、15年ぶりに開催される大回顧展です。墨の濃淡、筆の方向や勢い、太細の使い分け、細部表現のこだわりなど、雪村の筆の技術は実物を観ることでより深く鑑賞できます。

また、雪舟はすべてを静止した状態で捉えて本質的な姿や美しさは画の内部にあるとしました。一方雪村の作品はすべてが動いています。そして不安定だからこそ劇的で、観る者にストレートに伝わるメッセージがあります。静の雪舟の次の時代を担った、動の雪村のダイナミックでユーモアあふれる、現代のアニメにも通じるフレッシュでかっこいい雪村を感じてください。雪村の作品をこれだけ大量に観ることも貴重な経験になると思います。

展示期間が限られている作品が多いので、ご覧になりたい作品の展示期間をホームページで確認しておでかけください。(下の公式サイトから作品目録のダウンロードページをご覧ください)

「ミュシャ展」 終了しました。

「ミュシャ展」

会期:2017年3月8日(水)~6月5日(月)
場所:国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)

アルフォンス・ミュシャ(チェコ語発音ムハ、1860-1939)はアール・ヌーヴォーを代表する芸術家として広く知られています。ミュシャはオーストリア領モラヴィア(現チェコ)生まれ。ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡り、34歳の時に、女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手掛け成功をおさめます。

美しい女性と流麗な植物文様を用いた華やかなポスターや装飾パネルは、その後のミュシャの仕事の中心となります。一方、故郷チェコやルーツであるスラヴ民族のアイデンティティーを題材にした作品も多く描きました。

2017年は日本とチェコが国交を回復してから60周年を迎える年にあたります。これを記念して、ミュシャが晩年の約16年を費やして描いた≪スラヴ叙事詩≫(1911-26)全20点が、チェコ国外では世界で初めて公開されます。

ミュシャとは?

1860年、オーストリア領モラヴィア(現チェコ)のイヴァンチツェに生まれます。10代のころから裁判所の書記として働きながらも、多くの時間を素描にあてていました。10代後半にプラハの美術アカデミーの受験に失敗し、ウィーンで舞台装置などを手掛ける工房の助手として働き始めます。20過ぎに、その工房の経営危機から解雇され、ミクロフ(チェコの都市)の大地主クーエン=ベラシ伯爵の援助によりミュンヘンの美術アカデミーで学びます。卒業後も伯爵の援助でパリのアカデミー・ジュリアンに入学します。

1888年に伯爵の援助を打ち切られたため雑誌の挿絵の仕事で生計をたてることになったミュシャは、その2年後フランスの演劇雑誌『舞台衣装』の挿絵制作の仕事を始めます。1894年の年末に戯曲「ジスモンダ」に主演するサラ・ベルナールのためのポスターを制作、1895年1月1日に街頭に貼り出されたポスターは大好評、その成功からサラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶことになりました。

その後、1900年のパリ万博でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を手掛け銀賞を受賞、1901年レジオン・ド・ヌール勲章を受章するなど、芸術家として成功していきます。

1908年、ボストン交響楽団のコンサートにてスメタナ作曲の交響詩「わが祖国」を聴き≪スラヴ叙事詩≫制作への意欲を高めます。1910年、50歳のときボヘミアに戻り、コロレド・マンスフェルド伯爵より≪スラヴ叙事詩≫制作のためのアトリエ、そして住居としてズビロフ城を18年間の契約で借ります。

「ミュシャ展」

≪スラブ叙事詩≫を制作するアルフォンス・ミュシャ、ズビロフ城アトリエにて、1923年

1911年、≪スラヴ叙事詩≫の制作を開始、1928年に、プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)にて全20点のうち19点を展示しました。

1939年、ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻、ミュシャはゲシュタポに逮捕され数日間尋問を受けます。後に釈放されますが、前年から患っていた肺炎が悪化、7月14日にプラハで他界します。80歳の誕生日である7月24日の10日前のことでした。

≪スラヴ人とは?≫

スラヴ人とは言語学上の概念で、インド・ヨーロッパ語族の中のスラヴ語派のことです。一つの民族を指してはいません。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)、西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)、南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられます。

チェコは、西のボヘミア地方と東のモラヴィア地方があり、9世紀にこのモラヴィアを中心にモラヴィア王国が栄えます。モラヴィア王国はチェコとスロヴァキアの共通の祖とされます。(№3≪スラヴ式典礼の導入≫は9世紀のモラヴィア王国を描いています)

王国が崩壊した後、神聖ローマ帝国の一つとしてプシェミスル朝ボヘミア大公になり、プジェミスル家は9世紀末にボヘミアを統一し王国となります。(作品としては№5≪ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世≫をご覧ください)

1306年プシェミスル家が断絶したのち、ルクセンブルク家(ドイツ系)が1310~1437年までボヘミア王を世襲し、ドイツ化が進みます。1346年の夏にボヘミア王とドイツ王になったカレル1世は、1355年に神聖ローマ皇帝カール4世に即位します。(1346年の出来事として№6≪東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン≫があります)

カール4世は戴冠の旅の途中、特使を派遣しステファン・ドゥシャン皇帝に祝福の手紙を送り、ビザンティン帝国との戦いに際しカトリック教会と同盟するよう訴えました。カール4世の母方がスラヴ出身でスラヴ語も理解したそうです。西ローマ皇帝がカール4世、東ローマ皇帝がステファン・ドゥシャンという、ローマ帝国の二人の皇帝がスラヴ人でした。

15世紀に入り教会大分裂が起きカトリックが動揺している頃、プラハ・カレル大学の総長ヤン・フスが教会改革を断行。教会を牛耳っていたドイツ人を追放します。(この時代に関連する作品として№8≪グルヴァルトの戦いの後≫、№9≪ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・スフ師があります)

その後ハプスブルク家(ドイツ系)、フス派貴族イジー(これも№13≪フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー≫として描かれています)、ヤゲウォ家(ポーランド系)を経て、再びハプスブルク家がボヘミア王位につきます。

1620年、ピーラー・ホラの戦いでチェコのプロテスタント貴族がカトリックの神聖ローマ帝国に負けてしまい、プロテスタントの人々は移住を余儀なくされます。(№16≪ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々≫は、ボヘミアを追われたコメンスキーを主題にしています)フス派、ルター派、ボヘミア兄弟団など改革派が一掃されてしまい、ハプスブルグ家の支配の下カトリック化が強制的に進められます。

チェコはドイツ人優位の社会となり、チェコの貴族はドイツ化します。チェコ語は、農民と下層階級の言葉として残り、学問や文学の世界から姿を消してしまいます。この状況が変化するのが18世紀末以降の民俗復興運動です。

18世紀末以降、民族復興運動でチェコ人の民族的な団結が求められ、弱小のチェコ人が強大なドイツに対抗するため、スラヴ人の存在に光があたりました。これが汎スラヴ主義です。

≪スラヴ叙事詩とは?≫

故郷を愛したミュシャが描いた、チェコとスラヴ民族の歴史から主題を得た壮大な絵画の連作です。

1928年、チェコスロヴァキア独立10周年に当たる1928年、プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で公開されましたが、若い世代からは保守的な伝統主義と評価されてしまいました。

さらに、経済危機や政治状況などから、当初予定されていた常設のための美術館は建設されず、第二次世界大戦終結後にミュシャの生まれ故郷近くのモラフスキー=クルムロフ城に寄託されました。1960年代以降、モラヴィアのクルムロフ城で夏期だけ公開されてはいましたが、ほとんど人の目に触れることはありませんでした。2012年に80年以上の時を経てやっとプラハのヴェレトゥルジェニー宮殿に戻され、全作品が公開されました。

超大作 ≪スラヴ叙事詩≫

1912年に完成した3点は≪原故郷のスラヴ民族≫≪リューゲン島(ルヤーナ島)でのスヴァントヴィート祭≫≪スラブ式典礼の導入≫です。

この3点は、青を基調としている点、歴史的な出来事と象徴的な人物を組み合わせている点、大きさなどから一つのグループとして観ることが出来ます。

≪原故郷のスラヴ民族≫1912年

                 描かれている時代:3-6世紀 舞台:サルマティアの平原

・宇宙を想わせる深い青で描かれた作品です。左下には脅えた二人がうずくまり、右には浮遊する3人の人物が描かれています。くっきりと描かれたこの二つの人物グループの背景には、地平線をなぞるように群像が見えています。

・この作品は、紀元前3~6世紀頃のスラヴ民族の苦難を描いています。左の男女は略奪者に村を焼かれ、逃げ延びたスラヴ人です。足元には農耕民族であったスラヴ人を象徴する鎌が描かれていますが、楽園を追放されたアダムとイヴになぞらえられています。

・脅えてうずくまるスラブ人の着ている白い服は、彼らの純粋さや無垢、無抵抗を表しているそうです。その白い色は、空の星の白と呼応しています。本作以外にもスラヴ叙事詩の連作には「白」が効果的に描きこまれています。

・画面右上の中央の人物は古代スラヴ人が信仰した多神教の祭司で、目を閉じて両手を広げ神に救いを求めています。祭司の左の青年は「正義の戦い」で、武器を身に着けています。左の少女は「平和」の寓意像で、緑葉の冠は平和を象徴しています。

呼応しています。本作以外にもスラヴ叙事詩の連作には、白の衣など「白」が効果的に描きこまれています。

・預言者の頭部は画面から突き出していて、彼らが村の男女とは異なる次元にいる事を示しています。


「ミュシャ展」

≪スラブ叙事詩「原故郷のスラブ民族」≫1912年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery


2≪ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭≫1912年

        描かれている時代:8-10世紀 舞台:アルコナ(ルヤーナ島/現リューゲン島、ドイツ)

・空中に浮遊する人々と、引力に囚われているような地にいる人々とが描かれています。浮遊するグループも左右に二つに分かれています。浮遊する人々は青、地の人々は白を帯び、大きくそびえるオークの木や山肌は夕日で赤く染められています。

・本作は、ルヤーナ島での祭りを地上に描きながら、この島で起きた悲劇的な史実を空中の人物たちで暗示しています。

・バルト海に浮かぶリューゲン島(チェコ語:ルヤーナ島)の町アルコナは、古代スラヴ人の聖地で、民族神スヴァントヴィートを祀る神殿がありました。8-10世紀にかけて、アルコナでは毎年大がかりな収穫祭が開かれ、遠方からも巡礼者が訪れました。

・地上には夜明けまで続く祭の様子が描かれています。広場では少女たちが踊り、人々は座り談笑していて、左奥には生贄の牡牛や祭司が見えます。

・けれども画面上部に浮遊する人物たちは、これから起きる災難を予兆しています。1168年にデンマーク王ヴァルテマールが島を征服、古代スラヴ人の神殿や神像を破壊してしまいます。画面左上からは、ゲルマンの戦神トールが狼の群れを従え迫って来ています。中央上には、角と輝く剣を手にしたスヴァンヴィートが立ち、力尽きたスラヴの戦士を受け止めています。その左、手を縛られた男女三人は、スラヴ人の拘束と従属を示しています。

・本作の副題は「神々が戦いにあるとき、救済は諸芸術の中にある」です。手を縛られた人物の前で三人の楽師が音楽を奏で、その下では木彫師の青年が太陽の偶像を彫っています。

・地上の中央では、子供を抱く白い衣の母親が描かれていて、じっとこちらを見つめています。彼女は≪ヴィートコフ山の戦いの後≫や≪ヴォドニャニでのペトル・ヘルチツキー≫などにも描かれています。彼女は、作品の世界と私たちの世界を仲介する存在です。

3≪スラヴ式典礼の導入≫1912年

           描かれている時代:9世紀 舞台:ヴェレフラット(モラヴィア王国/現チェコ)

・青を基調にした青年と浮遊する人物、そして白く描かれた地上の人々、右端の暗い色のグループで構成されています。

・本作はスラヴ式典礼が失われるという行く末を暗示している作品です。

・9世紀前半にスラヴの国家、モラヴィア王国が誕生しました。ロスティスラフ王は自国の教会のためにビザンティン帝国に宣教師の派遣を要請し、キュリロスとメトディオスの兄弟がモラヴィア王国の教会のために赴きました。彼らはスラヴ語を表記するグラゴール文字(のちにキリル文字に代わる)を考案、スラヴ語で聖書を翻訳、スラヴ式典礼を導入しました。

・けれどもメトディオスの死後、ロスティスラフ王の後継者スヴァトプルク王はローマ教皇に従い、メトディオスの弟子たちを追放してしまいます。彼らはブルガリアとロシアに避難します。

・本作は、兄弟が王国に到着した約20年後にスラヴ式典礼が認められた場面を地上に、典礼が失われる未来を空中に描いています。宮廷の中庭では、スヴァトプルク王の前で教皇ヨハネス8世からの勅命書が読み上げられています。画面中央やや左の初初の人物はメドディオスです。弟子を伴って立っています。

・上空には兄弟の派遣を皇帝に願ったロスティスラフ王と弟子を伴ったキュリロスがいます。フードを被ったキュリロス(すでに故人)はスラヴの信徒たちを慰めていて、スラヴ式典礼が失われることを暗示しています。空中に浮かぶ人物像は兄弟の守護者となるブルガリアとロシアの聖人で、整然と並ぶ姿は規律と秩序と団結を表しているようです。

・手前に立つ青年の持つ輪は「団結の力」を示しています。彼は地上にいますが青っぽく描かれていて、二つの世界をつなげる役割を果たしています。そして私たち観者と作品の仲介役でもあります。

「ミュシャ展」

≪スラヴ叙事詩「スラヴ式典礼の導入」≫1912年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

4≪ブルガリア皇帝シメオン1世≫1923年

             描かれている時代:9世紀―10世紀初頭 

             舞台:ブレスラフ(ブルガリア帝国/現ヴェリキ・プレスラフ、ブルガリア)

・中央の高い位置に描かれた人物が何かを指示し、その周りでは、多くの人々が知的な労働をしているようです。厳かな宮殿には似つかわしくない、あわただしい様子がうかがえます。何か急いで事を進めているのでしょう。

・スラヴ式典礼は導入されましたが、メトディオスが亡くなると彼の弟子たちはモラヴィア王国を追放されブルガリアやロシアに避難しました。ブルガリアはシメオン皇帝が統治していました。シメオンはモラヴィアから逃れてきたスラヴ語派の聖職者を受け入れたのです。

・シメオンはビザンティン帝国で育ったので、自国の文化をビザンティン帝国のような高度なものにしようと考えていました。哲学者、文学者、言語学者を庇護し、ビザンティンの書物や教会文献をスラヴの言葉に翻訳させ、スラヴ文化を反映させました。本作はスラヴの文学と美術の幕開けを描いています。

・首都プレスラフにあった皇帝の間が舞台になっています。中央の玉座にいるシメオンが指し示すドームには天使が描かれていて、天上に繋がっていることを表しています。ドームの外壁や床などには、ミュシャの得意とした装飾が施されています。

・本作は第4作とされていますが、実際は12から15作目に制作されたものです。


5≪ボヘミア王プジェミスル・オタカル2世≫1924年 

     描かれている時代:1261,1264年 舞台:プラチスラヴァ(ハンガリー王国/現スロヴァキア)

・≪ブルガリア王シメオン1世≫と同様、室内での出来事を描いています。ミュシャの得意とする装飾的で細やかなテクニックで室内を描いている点も2つの作品の共通点です。細やかな刺繍の布やドーム内の紋章なども見どころです。

・中央の人物はボヘミア王プジェミスル・オタカル2世で、右手はハンガリー王子ベーラの手を、左手は婚姻を祝う客人の手をとっています。

・プラハを本拠地としたプジェミスル家は9世紀末にボヘミアを統一しました。その後勢力を拡大し、オタカル2世の時には強大な力を持っていました。農地や鉱山の開発などで蓄えた経済力と軍事力で領土を拡大、オタカル2世は「鉄と黄金の王」と呼ばれていました。

・彼は敵対していたハンガリーと婚姻によって友好関係を結びました。オタカル2世自身は、1260年の戦いで破ったハンガリー王の孫娘クンフータと1年後に結婚、その3年後に彼の姪とハンガリー王の息子ベーラが結婚しました。

・本作は、この2つの結婚を描いているとされていて、客人であるロシアやセルビア、クロアチアやスラヴ諸国の君主を歓迎する様子を描いています。

・ミュシャはオタカル2世をスラヴの連帯を掲げた人として捉え、ボヘミアの王家とスラヴ諸国との友情が強調されています。絶大な力を持つオタカル2世を恐れたドイツ諸侯は彼をローマ皇帝とせず、スイスの弱小領主であったハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝にしたことで、オタカルとルドルフは1278年に、モラヴィア南部のマルヒフェルトで決戦、オタカルは敗死しました。

6≪東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン≫1923年

            描かれている時代:1346年  舞台:スコピエ(セルビア帝国/現マケドニア)

・セルビアの民族衣装を着て、花や枝を手に微笑を浮かべまっすぐこちらを見る少女たちを先頭に、長い行列が描かれています。彼らは教会から出て来たようです。

・この作品は1346年にスコピエ(現マケドニア共和国首都)で行われたステファン・ドゥシャンの戴冠式を描いています。ミュシャはローマ皇帝の戴冠式典ではなく、即位後に教会から出てきた皇帝を祝う行列を描いています。

・ドゥシャンは14世紀セルビアの王で、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の衰退を機にバルカン半島へ領土を拡大、1346年に自らをセルビア人とギリシャ人の皇帝と宣言、2年後に正式にローマ皇帝に即位しました。

・1349年には法律を成文化、ドゥシャン法典を編纂しました。本作の副題は「スラブの立法」で立法者としてのドゥシャンを讃えています。

・少女たちの後ろには皇帝の兜と剣を運ぶ貴族の一団が描かれています。作品中央には臣下に囲まれたドゥシャンがいますが、存在感は前の人々に比較して薄いようです。その後ろに妻や息子、大主教、さらに後ろにはヨーロッパ諸国からの使者が続きS字を描いてうねりながら行進しています。

・1355年にボヘミア王カレル4世が神聖ローマ帝国皇帝に即位、ヨーロッパの大部分がスラヴ人によって治められます。

「ミュシャ展」

≪スラヴ叙事詩「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」≫1923年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

8≪グルンバルトの戦いの後≫1924年

                描かれている時代:1410 舞台:グルンヴァルト(ドイツ騎士団国/現ポーランド)

全体にグレーがかり単一のトーンで描かれた画面中央、少し高くなったところに男性が立っています。その面前にはたくさんの死体が転がっています。投げ出された剣や鎧も地面に見えます。死体とともにある白地に黒い文字の旗はドイツ騎士団のものです。

・1410年、現ポーランド共和国のグルンヴァルトでドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍間で戦闘がありました。連合軍は勝利し、この史実は北方スラブ同盟の力を象徴するとしてしばしば歴史画の主題となっています。

・ミュシャは激しい戦闘の場面を描くのではなく、勝敗が決した次の日の朝、ポーランド王ヴワディスワフ・ヤギェウォが戦場を検分する様子を描いています。戦闘に勝利した連合軍は勝利を喜ぶというよりも、悲惨は光景を前に暗く沈んでいます。背景の黒雲がそれを象徴しています。

・王の背後の一団の中に、ボヘミアの義勇軍を率いて参戦したヤン・ジシュカも描かれています隻眼の人物が彼です。ヤン・ジシュカはのちにスフ戦争で大活躍します。彼とヤン・フスは19世紀の民俗復興運動において英雄的存在です。

7≪クロムニェシージュのヤン・ミリーチ≫ 3部作「言葉の魔力」左パネル 1916年

                描かれた時代:1372年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ

・建設現場の足場の高いところに黒衣の人物が描かれています。柱に囲まれた地上の部分は白く輝くように明るく、清らかな印象です。左手前には、私たちの方をじっと見ている女性がいます。

・ここはプラハ旧市街の売春宿だったところです。新エルサレムという名前の修道院に建て替えられている場が描かれています。

・ヤン・ミリーチは14世紀の神学者及び宗教改革家で清貧に生き、堕落した教会を糾弾して多くの人に支持されました。

彼はボヘミア王で神聖ローマ皇帝だったカレル4世の協力のもと、売春宿を修道院に建て替え、改悛した娼婦たちを住まわせました。

・足場の高い位置にいる黒い衣をまとっている人物、あるいはアーチが残る崩れた壁の前に立つ人物がミリーチです。

・改悛した女性たちは修道女としての白い衣をまとっています。その周りには脱ぎ捨てた色とりどりのドレスや装身具が地面に散らばっています。

・白く輝く女性たちの前に立ちはだかるように赤いドレスを着たままの娼婦が描かれています。懺悔を拒んでいるのでしょうか。彼女は口を塞いでいます。「嘘をつく罪」の象徴、あるいはほかの女性に悪い影響を与えないように口を塞いでいるのかもしれません。その他にも、蹲って嘆く女性、目を閉じて静かに祈りを捧げる女性などが描かれています。

・ミュシャはチェコの宗教改革期は、ヨーロッパの文化に大きな影響を与えた輝かしい時代と考えていました。

9≪ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師≫3部作「言葉の魔力」中央パネル

                                            1916年

                描かれた時代:1412年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・広大なゴシック様式の天井を持つ教会の内部で多くの人が集まっています。よく見ると画面左の演壇で、身を乗り出すようにして群衆に語りかけている人物がいます。

・彼はヤン・フスで14世紀から15世紀に活動したチェコの宗教改革家です。教会の堕落を批判、チェコ語で説教を行ったことから幅広い人々から支持されました。けれども1415年、コンスタンツ公会議の結果火刑に処せられ、それが約20年続くフス戦争のきっかけとなったのです

・19世紀のチェコで民族復興運動が高まった時、フスは再評価されます。絶対的権力に抵抗したフスは、ハプスブルク帝国の支配下にあったチェコの人たちの共感を呼んだのです。

・この作品は、1412年にプラハのベツレヘムの礼拝堂でヤン・フスが説教をしている場面を描いています。3000人を収容できたという礼拝堂には様々な階層の人々が集まり、熱心にフスの声に耳を傾けています。彼の目の前には、椅子に座る生徒たちのグループ、右の天蓋の下には、ヴォーツラフ4世の妻、王妃ジョフィエが座っています。傍らの侍女は密告者を警戒していうように目を光らせています。奥には様々な身分の人たちがいます。

・実際のベツレヘム礼拝堂は、木製の天井を木柱で支えたものだったそうですが、ミュシャは壮大なゴシック様式の天井を選び、重厚な空間を演出しました。まるで私たちもこの礼拝堂の中にいるような気持ちになります。こちらに背を向けている3人の親子は、私たちを同じ方向に視線を向けています。この作品と私たちの仲介役かもしれません。

10≪クジーシュキでの集会≫ 3部作「言葉の魔力」右パネル 1916年

              描かれた時代:1419 舞台:クジーシュキ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・荒涼とした空地の少し高い丘の上、目印になる高い木のそばの急ごしらえの演壇に聖職者の衣を着た人物が祈っています。遠くから人々が続々と集まって来ています。すでに武装している人もいます。

・1415年、ヤン・スフが処刑されたことをきっかけに、スフ派の信徒は穏健派と急進派に分かれ、急進派の一部は神聖ローマ帝国と衝突をします。この急進派の指揮を執ったのが、8≪グルヴァルトの戦いの後≫で隻眼の人として描かれていたヤン・ジシュカです。

・本作は、1419年にプラハの南にあるクジーシュキの丘でフス派の急進派聖職者ヴァーツラフ・コランダによる説教の場面を描いています。彼は、武力による抵抗を説きました。「言葉の三部作」の右パネルとして、司祭ヴォーツラフ・コランダが言葉によって人々を戦争へと向かわせている場面を描いているのです。

・彼の前には11≪ヴィートコフ山の戦いの後≫にも描かれている太陽の偶像が見えます。プラハやプルゼニュといった周囲の街から集会に参加しようと人々が集まって来ています。

・1434年にフス派の穏健派の一部がローマ・カトリックと和解しフス戦争が収束へ向かうまで、約20年の戦争が始まる直前の場面が描かれているのです。

11≪ヴィートコフ山の戦いの後≫ 1423年

                描かれた時代:1420年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・こちらも荒涼とした平原が舞台で、礼拝が行われているようです。中央には太陽の偶像をもった聖職者が立っていて、その向かいには展を仰いで感謝を捧げている人物がいます。彼の前には武器が集められています。

10≪クジューシュキでの集会≫の翌年、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントのボヘミア王即位に反対したフス派が、プラハ近郊のヴィートコフ山で帝国軍と衝突、フス派が勝利しました。本作はその戦闘そのものでなく8≪グルンバルトの戦いの後≫と同様に、戦闘の後の様子を描いています。

・光の中で立っているのはフス派の急進派の指揮を執い、8≪グルンヴァルトの戦いの後≫で隻眼の人としても描かれていたヤン・ジェシュカです。彼の前の武器は戦利品です。

・画面中央左に移動式の祭壇が置かれて、援軍を率いて勝利に貢献した聖職者と、その前に地面に伏せて祈る聖職者も描かれていて、衣の黒い色が画面に不思議なリズムを与えています。

・画面左下で疲れ果てている女性がいて、その眼は鋭く光っています。彼女は私たちに何を言おうとしているのでしょう。戦争は当事者だけでなく一般の人々を巻き込む悲惨な行為であることを伝えているのでしょうか。

12≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫ 1918年

            描かれた時代:1420年頃 舞台:ヴォドニャヌイ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ

・後景に煙の起ち上っています。手前に横たわる白い衣の人々は他の人たちよりも大きく描かれています。彼らはこの事件の犠牲者でしょう。

・1420年、ボヘミア南部の街ヴォドニャヌイがフス派に攻撃されました。本作はそのフス派襲撃後の様子が描かれています。地面に並んだ犠牲者を前に人々が嘆き悲しんでいます。一人の青年が復讐を誓うように左手を挙げていますが、それを押しとどめている聖書を持つ黒い服の人物はペトル・ヘルチツキーです。

・彼は15世紀の宗教改革家で、フス派の暴力も、教会の堕落にも失望していました。農村に立てこもり祈りと自給自足の静かな生活を送り、戦争を否定、教会権力に縛られない自由な信仰の姿勢を説いた平和主義者でした。

・ヘルチツキーの横に、子供を抱く母親が座っています。彼女はじっとこちらを見つめていて、この場面と私たちの世界との隔たりを縮めます。

13≪フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートのイジー≫ 1923年

                描かれた時代:1462年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・明るい窓の前で立派な聖衣を着た人物がいます。その目線の先の一段高いところに、やはり地位の高い服装の人物が描かれています。

・右端の高い位置にいるのはイジー王です。フス派は急進派と穏健派に割れ、さらに分派も生じて、フス戦争は泥沼化しました。1434年のリバニの戦いでカトリックと提携した穏健派は急進派を壊滅させ、穏健派はローマ教会と和解してフス戦争は終結しました。けれども、ボヘミア王ジギスムントの後継者が相次ぎ早世したことでフス派のイジーが王となりました。

・本作の場面はプラハ王宮内での出来事を描いています。ローマ教皇ピウス2世に派遣された特使が、王が容認するパンとぶどう酒の両方を用いる聖体拝領を禁止するようイジー王に伝えているところです。ローマ教会はパンだけで行います。

・イジーは椅子を蹴倒し決然とこれを拒否しています。周りにはプラハやオロモウツ、ブラティスラヴァから集まった司教たちが射ます。前掲の少年は「ROMA」と表紙に書かれた本を閉じていて、教皇との友好的な関係の終わりを象徴しています。また、窓から差し込む光は解放を表す黄色で、チェコの宗教がローマカトリック教会から解放されたことを表しているのかもしれません。

14≪ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによる

                    シゲットの対トルコ防衛≫ 1914年

            描かれた時代:1566年 舞台:シゲット(ハンガリー王国/現シゲトヴァール、ハンガリー)

・真っ赤な画面を黒い縦長の面が分割しています。黒い部分の左の奥では、激しく横に流れる炎と雲の下で小さく描かれた人々が剣を振り上げています。手前は女性や子供たちでしょうか。右の部分では、櫓のような建造物がありその上で比較的大きく描かれた人物たちがいます。ここにも女性がいて戦闘に参加しているようです。

・1566年、スレイマン大帝率いるオスマン帝国の大群が、ハプスブルグ家統治下のハンガリーに攻め込みました。クロアチアは当時ハンガリーの一部となっていて戦闘に巻き込まれました。本作は、ハンガリー南部のシゲトヴァールの街でオスマン帝国に抵抗するクロアチア総督ズリンスキ陣営の最後の姿を描いています。

・画面奥で大きく手を広げているのがクロアチア総督ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーです。被弾した瞬間を描いているとも考えられています。櫓の一番上に立っているのはズリンスキーの妻、ボヘミア出身のエヴァです。彼女は自爆覚悟で火薬庫に火を投げ込んで、オスマントルコ軍の侵入を阻もうとしたと伝わっています。他の女性たちも手に武器を持っています。

・どろりとした黒いものは煙でしょうか。エヴァにいよる爆発を暗示しているようです。

15≪イヴァンチツェの兄弟団学校≫ 1914年

      描かれた時代:1578年 舞台:イヴァンチツェ(ハプスブルク君主国・モラヴィア辺境伯領/現チェコ)

・木々に緑の葉が茂る穏やかな広場。人々はゆったりとした様子で集まり、数人は白い紙を手にしています。この作品にも、こちらをじっと見つめる人物が左下に描かれています。

・12≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫に描かれていた平和主義者のヘルチツキーへの共鳴から「ボヘミア兄弟団」が誕生します。彼らの高邁な思想は、19世紀の民俗復興運動の担い手たちの精神的な支えとなりました。ミュシャの故郷イヴァンチツェは、兄弟団の重要な文化的拠点でした。

・本作は兄弟団の学校の庭で聖書が印刷されている場面を描いています。小屋では聖書が印刷され、右手から新しい紙が運び込まれ、兄弟団の支部長であるヤン・ジェロティーンが印刷作業を見守る姿が描かれています。人々はめいめいにページをめくっています。左側で運ばれている果物は、宗教改革運動の実りの寓意です。

・この町の聖職者ヤン・ブラホスラフは、聖書を初めてチェコ語に翻訳しました。彼の没後、弟子たちが旧約聖書の訳を追加、詳細な注を付けて刊行したのがチェコ文学の金字塔「クラリツェ聖書」です。

・画面左下には盲人の老人に聖書を読み聞かせる少年がいます。彼は若き日のミュシャがモデルです。

16≪ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々≫1918年

                    描かれた時代:17世紀 舞台:ナールデン(オランダ共和国/現オランダ)

・灰色の大地に流れる水辺の側、椅子に座った人物が描かれています。彼は力なくうなだれています。前景左には人々がいて、嘆き悲しんでいるようです。

・1618年、30年戦争が始まります。ボヘミアでの反乱はその2年後で、プロテスタント軍が皇帝軍に惨敗し、多くの改革派有力者が処刑されました。「ボヘミア兄弟団」もボヘミアから一掃されました。

・ヤン・アーモス・コメンスキーは、フス戦争の終結後にプロテスタントに改宗したフス派の一部に属する兄弟団最後の聖職者です。1620年にボヘミアの貴族がピーラー・ホラの戦いで敗れ、ボヘミア国民はカトリックへの改宗を迫られ、プロテスタントの人々は移住を余儀なくされました。ハプスブルグ家の支配下に入ったチェコでは、コメンスキーもボヘミアを追われ、諸国遍歴の末にアムステルダムで亡くなります。1670年の事です。

・ミュシャは、アムステルダム近くのナールデンの水辺を舞台に、愛する祖国の方を眺めながら、力なく座るコメンスキーと彼の死を悟った人々が悲しむ場面を描きました。

17≪聖アトス山≫ 1926年   描かれた時代:- 舞台:アトス山(ギリシャ)

・聖母マリアと幼子キリストの描かれたドームのある聖堂に人々が集まって礼拝しています。礼拝画の前には天使たちが浮遊してまばゆい光を放っています。

・エーゲ海にのぞむ北ギリシャのアトス半島は、現在も多くの修道院が立つギリシャ正教最大の聖地です。10~15世紀の間は南スラヴ人の重要な文化的・宗教的拠点でした。

・ミュシャは1924年にこの地を訪れ、伝統的な儀礼と神秘的な雰囲気に感銘を受けたそうです。本作の副題は「正教会のバチカン、最古のスラヴの遺産を収めた箱」としています。

・場面は、聖堂内で巡礼者たちが聖職者が手にする聖遺物に口づけしているところです。巡礼者は右側手前から円を描くように奥へ進み、光線に沿うように頭を垂れています。

・光輪を付けた天使たちは実際にアトス山にある4つの修道院の名前を掲げ、奥の二人は「慈愛」と「信仰」と言う言葉を掲げています。

18≪スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い 1926年(未完成)

                               描かれた時代:19世紀から20世紀初頭 舞台:-

・一段高くなった舞台のようなところで人々が円陣を組んで力強く手を上げています。その中央には大きく描かれた人物が木に座っています。

・中央にいる女性は、スラヴの女神スラヴィアで菩提樹に座っています。その下の若者たちはスラヴィアを囲み、彼らに向かって誓うように手を伸ばしているのは政治家たちです。

・1894年にチェコで結成されたスラヴ文化の再興を求める民族主義団体「オムラジナ」の集会の様子を描いています。

・画面上部の両隅が塗り残されていて、顔も判明しない人物がいるなど、未完とも考えられています。

手前のハープを放出る少女はミュシャの娘ヤロスラヴァ、右前景の肌かの少年は息子イジーがモデルと言われています。本作はミュシャ生前には公開されませんでした。

19≪ロシアの農奴制廃止≫ 1914年

                        描かれた時代:1861年 舞台:モスクワ(ロシア帝国/現ロシア)

・画面の3分の2を占める空間に聖堂が描かれています。霞がかかったようにかすんだ聖堂とは対照的に雪の上に立つ人々はくっきりと描かれています。寒く厳しい気候の中で、人々はなぜ集まっているのでしょう。

・ここはモスクワの赤の広場で、1861年に農奴の解放が宣言された瞬間が描かれています。でも人々の表情は暗く不安そうです。背後の建物はワシリー大聖堂で点描で描かれていて、その為靄がかかっているように見えます。その大きさは集まった人々にのしかかる権力の象徴でしょうか。かすんでいることで、彼らの不安を表しているとも考えられます。

・画面右奥の演壇には、布告を終えて引き上げようとする人が描かれていて、今まさに解放が宣言されたことを表しています。でも人々はそれが何を意味するのか理解できていないようです。ミュシャは1913年に取材のためロシアを訪問します。祝典を描くつもりだったミュシャは、そこで変わらず悲惨な生活を送る庶民を見て主題を変更したそうです。

・この作品は19世紀を舞台にしていますが、≪スラヴ叙事詩≫制作において早い段階の4~5枚目に制作されています。スポンサーであったアメリカ人実業家チャールズ・R・クレインはロシア愛好家で、本作は彼の意向が反映されているのでしょう。

20≪スラヴ民族の賛歌≫1926年

                                     描かれた時代:1918年 舞台:-

・画面中央で両手を広げる巨大な青年が描かれていて、その背後にはキリストの姿が見えます。画面全体は、青の部分、赤い部分、黒の部分、そして明るい黄色の部分といった色で場面が分けられています。

・本作は≪スラヴ叙事詩≫の全作品を総括するかのように、スラヴ人の歴史が凝縮されています。ミュシャは青、赤、黒、黄で歴史を4つに分類しました。青の部分は古代スラヴの時代で、右下では≪ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭≫で火を囲み踊っていた人々がいます。右上にはスヴァントヴィート神が影のように描かれています。

・画面上部で帯状に広がる赤い部分は中世で、スラヴの英雄たちが一堂に並んでいます。はっきりと識別することは無菅しいですが、そこにはヤン・フス、ヤン・ジシュカも描かれているでしょう。

・黒い部分は、スラヴ人が抑圧された時代です。外敵との争いに加えスラヴ人自身が引き起こした№≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫のような悲しい史実も含まれるでしょう。

・画面中央に広がる黄色い部分は、1918年の支配からの解放が表されています。右側には第一次世界大戦で勝利した連合国の旗がひらめいて、画面左下には兵士たちが並んでいます。中央にはスラヴの民俗衣装を着た人たち、そこには名もない一般の人々が描かれています。

・左下で両手を広げこの場面を讃えているのは、私たち自身かもしれません。

「ミュシャ展」

≪スラヴ叙事詩「スラヴ民族の賛歌」≫1926年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

鑑賞ポイント

<描かれた名もない人々>

≪スラヴ叙事詩≫は歴史的な出来事を描いていますが、画面の主役は歴史上の有名な人物ではなく、一般の人々が多いのです。それぞれの時代に翻弄されながら必死に生き、歴史を変え残してきたのは名もなき人々であることをミュシャは私たちに伝えているのでしょう。

<色の力>

・絵画の中の白い衣、白い星、白い紙、白いテキスタイルなど、「白」は純粋や無垢などを象徴しています。また、「青」は描かれている場面と異なる時空を、「赤」は強い存在として懺悔を拒む女性や高慢な聖職者、あるいは戦闘場面に使われています。これらの色の配置や構成を観ることで、ミュシャの狙いや色に託した言葉を考えてみましょう。

<仲介者:ナビゲーター>

・多くの作品の中に、こちらをじっと見つめる人が描かれています。彼らは、私たちに現状を説明し、疑問を投げかけ、感想を求めているようです。また、画面の中で背を向け、私たちを同じ方向に視線を投げる人もいます。彼らは作品の世界と私たちの世界を繋ぐ存在「仲介者」です。彼らを発見し対話することで、ミュシャの伝えたかった時代背景や民族の苦難を知ることが出来るかもしれません。

「DAVID BOWIE is」展 終了しました。

会期:2017年1月08(日)~4月9日(日)
場所:寺田倉庫G1ビル(天王洲)

デビッド・ボウイ(1947‐2016)のキャリアを網羅する大回顧展が都内で開催中です。

衣装、絵画、写真、映像など、300を超える貴重な展示物がところ狭しと並び、
ボウイが何者であったのかを丁寧に理解、そして体験させてくれます。

2000年にNMEというイギリスの週刊音楽雑誌の集計で
「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選出されるなど、
2016年1月10日肝癌により69歳で亡くなるまでの約50年間、
音楽家、そしてコンセプトアーティストとして活動し続けました。

作詞作曲をし人前で歌うという、一般的なミュージシャンの活動に
彼は演技という要素を取り入れることで一線を画しました。

自分ではない人間になるため、衣装、ヘアスタイル、メイクなどの手段も
楽曲と同様かそれ以上に重要な要素となり、
結果としてボウイは総合芸術家になったのです。

会場内で最も私達の目を楽しませてくれるのは、ボウイが纏った
衣装の数々でしょう。
1970年代、彼の活動に大きく貢献した、日本人服飾デザイナーの山本寛斎の作品はもちろんのこと、
アレキサンダー・マックイーン、ジョルジオ・アルマーニなど錚々たるデザイナー達の衣装を目の前で鑑賞できます。
別人格を宿すために作られたそれらは、異形のオーラを放つと共に、確固たるコンセプトを見える形で私達に教えてくれます。
会場を後にする頃には、
衣装とは視覚美術であり、そしてアートであることを確信することでしょう。

また、ボウイは親日家としても有名でした。
日本文化、特に歌舞伎からの影響を公言し、人間国宝である坂東玉三郎に化粧法を師事した他、
パフォーマンスに早替わりを取り入れるなど、熱心にカルチャーミックスを行ったのです。


ボウイが出演した1983年公開、大島渚監督作「戦場のメリークリスマス」についての特設コーナーも日本限定で設置されており、
共演した坂本龍一と北野武のインタビューを観ることができます。

会場入り口にてヘッドフォンが手渡され、
そこから、自分がいるエリアの作品解説やそれにまつわる楽曲が自動で再生されます。
見て、観て、聞いて、聴いて、ボウイの頭の中を旅するという特別な瞬間が味わえるでしょう。


社会全般に若者文化が芽生えた1960年代の代表であるビートルズが解散した年の1970年、新しい時代が始まりました。1970年代のアート・シーンは、音楽やファッションあるいは演劇といったジャンルを超えたカルチャーが登場し、ボウイはその代表として当時の若者たちを熱狂させました。


あなたがボウイのファンなら絶対に行くべき展示会です。
そうでなくとも、彼がいかに偉大なアーティストであったかを知る最良、そして最後の機会となるであろう回顧展、逃す手はありません!!