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2017年

 


「バベルの塔」展

「バベルの塔」展 終了しました。

会期:2017年4月18日(火)~7月2日(日)
場所:東京都美術館 企画展示室(東京上野公園)

ピーテル・ブリューゲル1世とは?

16世紀フランドルの風俗画を代表する巨匠はピーテル・ブリューゲル1世(1526/30-69)です(以下ブリューゲルと表記)。ブリューゲルが力を注いだジャンルは、農民の生活を描いた風俗画でした。そのため、彼はフランドルの農民だと誤解されたこともありました。実は都会派の画家です。

ブリューゲルはネーデルラントに生まれました。1540年代、アントウェルペン(アントワープ)のピーテル・クック・ファン・アールストの工房に弟子入りし修業に励み、後に彼の娘と結婚、二男一女に恵まれます。長男は父と同じ名前のピーテル・ブリューゲルで、偉大な父の作品をコピーすることで生涯を費やします。弟のヤン・ブリューゲルは「花のブリューゲル」と呼ばれ、ルーベンスとのコラボ作品も残されている花を得意とした画家です。

1551年に聖ルカ組合に画家として登録、1552年頃イタリアに絵画を学びに向かいます。フランスのリヨン経由でアルプスを越え、イタリアに行きました。彼の故郷は「低地」ですが、作品の多くに山々が描かれています。それは、イタリアへ向かうときに見たアルプスの景色だと言われています。1554年にアントウェルペンに戻りました。

ネーデルラント美術とは?

本展覧会は、15世紀末から16世紀にいたるネーデルラント美術を詳しく観ることのできる展示となっています。ネーデルラントとは「低地の国々」という意味で、現在のベルギーとオランダにまたがる地域です。この地域で14世紀末から16世紀末にかけて発展した美術をネーデルラント美術と呼びます。

14世紀末から15世紀にかけてを「初期フランドル美術」、16世紀の神聖ローマ帝国(現ドイツ)とその周辺で描かれた絵画を「北方ルネサンス美術」と呼ぶこともあります(ややこしいので、ここではネーデルラントで統一します)。

ブリューゲルがアントウェルペンとブリュッセルで活躍していた1560年代は、圧制者アルバ公がネーデルラントに乗り込んできた時代です。スペインの第3代アルバ公爵であるフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507-1582)は、1535年以降プロテスタント打倒を掲げたカール5世のために、またカール5世退位後はフェリペ2世に仕え、属州であるネーデルラントの総督となりました。「血の審問所」と呼ばれた機関で多くのプロテスタントを処刑しました。

ブリューゲルの産まれたネーデルラントは、オーストリアやフランス、スペインのような絶対君主による統治・支配ではなく、市民が力をあわせて毛織工業や海上貿易を営み繁栄していました。近隣の君主たちはこの地方の利権を我がものにしようとしていました。

当時のヨーロッパはオーストリアとスペインに分かれたハプスブルク家が大きな力を持っていて、スペイン・ハプスブルク家はカトリック教会の熱心な信者でした。1516年、マルチン・ルターによる95ヶ条の論題から始まった宗教改革はネーデルラントにも広がり、新しいプロテスタント教会へ改宗したネーデルラントの人々は、ハプスブルグ家のスペイン王から激しい迫害をうけたのです。

1566年、アルバ公を指揮官とする一万人の部隊がネーデルラントに派遣されました。翌年、プロテスタント教会の信徒たちは、武力による反乱を起こし、何年も続いた戦いはイギリスの支援を受け、ネーデルラント北部は1581年にスペインからの独立を宣言しました。プロテスタント教徒が多く住む現在のオランダにあたる北部の地域は独立を宣言できましたが、カトリック教徒が多かった南部、現在のベルギーはスペインの支配下に残ったのです。

1520年代初頭から始まった弾圧は、カール5世からフェリペ2世に引き継がれ、ブリューゲルが油彩画を描き始めたころはフェリペ2世の弾圧の時代でした。本展で展示されている≪バベルの塔≫はアルバ公の大軍に対抗してネーデルラントのプロテスタントが反乱を起こした1568年頃の作品です。

油彩画について

油絵大成したのはネーデルラントです。15世紀初頭にファン・エイク兄弟が油彩画の技法を確立しました。それまでは、生乾きの漆喰の上に直接描くフレスコ画や板に描くテンペラ画が主流でした。どちらも顔料を使うのですが、フレスコ画は漆喰が顔料を定着させる糊の役目をし、テンペラは顔料と卵や卵黄に油や水を混ぜたものを練って描きました。

フレスコ画は発色がいいのですが、やり直しができません。テンペラ画は発色が良く、耐久性にも優れ、乾きが早いという長所がありましたが、顔料を薄くのばしたり、画面上で色を混ぜたり、あるいはふき取ったりといった生乾きだからこそできる技が使えませんでした。

油絵具は乾きが遅い分、グラデーション表現が出来ましたし、また厚塗りができることもあって、現在の油彩画の特徴である立体的な表現が可能となりました。

また、油彩画に使用する亜麻仁油がネーデルラントではたいへん上質なものが収穫できたそうです。細かな表現ができたのも質の高い油絵具のおかげなのです。

Ⅰ 16世紀ネーデルラントの彫刻

15世紀、16世紀のネーデルラント絵画に比較して、同時期の彫刻が話題になることは少ないかもしれません。けれどもその量・質ともたいへん高い作品が残されています。木彫については、数千単位の作品の存在が知られているそうです。

ユトレヒト、ブリュッセル、アントウェルペンには大規模な彫刻工房があり、ほとんどの教会には、ひとつ以上の木彫の祭壇が備えられていました。ポーランドやスウェーデンなど国外の注文にも応えていたそうです。彼らの名声が現代に伝わっていない理由は、多くの作品が署名されておらず作者不明だからかもしれません。

そのなかでアドリアーン・ファン・ウェーセルはネーデルラントの木彫家のなかで、作品を同定できる数少ないひとりであり、最もよく知られた存在です。彼は大きな工房を経営し、子弟を何人も抱えていたと考えられています。彼の作風に強く影響を受けた作品も多かったでしょう。

アドリアーン・ファン・ウェーセル周辺の彫刻家による≪受胎告知の聖母≫1460年頃(作品番号6)には、知らせを届ける大天使ガブリエルが彫られていないので、この作品は祭壇を飾った彫刻の一部だとも考えられます。彩色されていた時の色彩も失われています。それでも、柔らかなポーズ、身体に沿った衣服の襞など、聖母の驚きと戸惑いを私たちに伝える貴重な木彫作品です。

Ⅱ 信仰に仕えて

15世紀、16世紀の絵画の主題は宗教に関するものが主でした。キリスト教は偶像崇拝を認めていませんでしたが、文字を理解できない人たちにとっては図像は大変便利なものでしたし、主はイエスという「人の子」を介して教えを伝えようとしたのですから、目に見える図像を使った布教も正しいと当時の教会は考えました。

中世のキリスト教絵画では、画家の個性を表現するよりも伝統的で定型の図像が教会から指導されました。けれども15世紀以降、画家たちは独自の解釈で宗教絵画を描こうと考え始めます。誰が描いたのかが分かることも大切にされるようになって、作品に署名をする画家も現れました。

本章では、上質な油絵具による細部の入念な描写と筆跡の無い滑らかな描法による、宝石や金属、肌や髪、衣服の素材の描き分けなどが見事な作品を鑑賞することが出来ます。

ディーリク・バウツの≪キリストの頭部≫1470年頃(作品番号8)は裕福な貴族か市民、あるいは聖職者の私室に掛けられたものだと考えられています。キリストと同時代に生きたとされるローマの執政官ブブリウス・レントゥルスの手紙に記されているキリストの容貌は「額が広く、焦げ茶の髪を真ん中で分け、左右に分かれた短い髭を蓄え、目は灰青色だった」と書かれ、バウツはこの記述を克明に描きました。目だけは青でなく茶色です。襟を飾る真珠や宝石、金糸の刺繍の表現も見逃せません。

このような私的な礼拝用として描かれたサイズの小さめの作品は、無傷で保存された可能性が高いそうですが、展示されている作品の中には、≪アレクサンドリアの聖カタリナの論争≫(作品番号12)≪聖カタリナ≫(作品番号13)≪聖バルバラ≫(作品番号14)といった切り分けられたり分解されたりしてしまった作品が今に伝わるものもあります。

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ディーリク・バウツ≪キリストの頭部≫ 1470年頃 油彩、板 Museum BVB, Rotterdam, the Netherlands

Ⅲ ホラント地方の美術 コルネリス・エンゲブレフツ、ルカス・ファン・レイデン、ヤーコプ・コルネリスゾーン・ファン・オーストザーネン

オランダの中心部はホラント地方と呼ばれています。日本語のオランダという地名はここからきています。15世紀までネーデルラントはカトリック信者が多い南部が繁栄していましたが、16世紀の初め、ホラント地方の最大の都市レイデンを中心に特異な個性の絵画が形成されてきます。

コルネリス・エンゲブレフツはレイデン出身の画家で、彼の画風は南ネーデルラントにある当時のアントウェルペンの強い影響を受けていました。弟子のルカス・ファン・レイデンもこの都市の出身で、初めて国際的な名声を博しました。

ルカス・ファン・レイデンは早熟の天才で≪ヨセフの衣服をみせるポテパルの妻≫1512年頃(作品番号23)は10代の時の作品です。

「ヨセフとポテパルの妻」は旧約聖書の創世記の物語です。ヨセフの父イスラエルは、どの兄弟よりもヨセフを可愛がるので兄弟たちに憎まれていました。そして、兄弟たちがヨセフにひれ伏す夢を見たと彼らに語った事でますます嫌われ、兄たちに穴に投げ入れられてしまいます。彼を発見したミディアン人によりエジプトに向かうイシュマエル人の隊商に売られ、ヨセフはファラオの宮廷の役人で侍従長のエジプト人ポテパルに買われます。ポテパルはヨセフを信頼し、全財産をヨセフの手に委ねるようになりました。

ポテパルの妻は、美しく身体も優れたヨセフに言い寄りますが拒絶されてしまいます。彼女はヨセフに強姦されそうになったと夫に訴え嘘をつきます。作品ではうろたえて後ずさりするポテパルと証拠の服を見せる妻が主役に描かれています。二人の後ろにいる人々は、妻の召し使いたちと考えられますが、彼らは私たちに「嘘が見抜けるか?」と問うているようです。

左の窓越しに、二人の男に連行されるヨセフが描かれています。背後の浮彫装飾は、知恵の実を食べるようアダムを誘惑するエバと、不安定な球体に乗り、羽根の生えた靴を履き、そこの抜けた壺を持つ運命の女神フォルトゥーナの姿です。愛の欺瞞と浮気心、そして愛の危うさを表しているのでしょう。

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ルカス・ファン・レイデン≪ヨセフの衣服を見せるポテパルの妻≫ 1512年頃 油彩、板 Museum BVB, Rotterdam, the Netherlands

Ⅳ 新たな画題へ

16世紀に入り、多くの画家たちは宗教画以外の主題を描くようになります。風俗画、風景画、静物画です。それまでにも風景は絵画に描かれてきましたが、それは宗教画の中の聖なる風景として聖母や救い主の背景に描かれました。また、≪風景の中の聖母子≫1480年頃(作品番号29)の裏側には静物が描かれ、ハンス・メムリンクの二連あるいは三連祭壇画の右側のパネルには馬二頭と猿が描かれ、その扉絵は≪風景の中の二頭の馬≫1490年頃(作品番号)として展示されています。

1510年頃、ヨアヒム・パティニールは宗教的主題と聖なる風景のバランスを逆転させた作品を描きます。たとえば≪ソドムとゴモラの滅亡がある風景≫1520年頃(作品番号32)に描かれているロトと娘たちそして塩の柱になってしまったロトの妻は、右端に小さく描かれています。この作品は聖書の物語を伝える宗教画というより、神が降らせた硫黄に焼かれ燃え盛る町ソドムとゴモラの情景が主役です。

「ソドムの滅亡」は創世記19章の物語です。主は、邪悪な人々が住むソドムとゴモラ両都市の上に硫黄の火を降らせ滅ぼします。正しい行いのロトとその家族は御使いたちによって救われます。逃れるとき決して振り返ってはいけないと言われるのですが、ロトの妻は振り返ってしまい、塩の柱となってしまうという話です。

作品では滅びるソドムとゴモラは真っ赤な炎の海として描かれています。右の端に小さく、御使いの天使に誘われてロトの一家が逃げています。右奥のテントでは、この物語の続きが描かれています。都市の滅亡により子種が絶えてしまったと思ったロトの娘たちは、父にワインを飲ませ誘惑、父と情を通じ子を得ようとするのです。

本作はパティニールを敬愛したデューラーが所有していたのではないかとも考えられています。

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ヨアヒム・パティニール≪ソドムトゴモラの滅亡がある風景≫ 1520頃 油彩、板 Loan Netherlands Cultural Heritage Agency,Rijswijk/Amersfoot,on,loan to Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

Ⅴ 奇想の画家ヒエロニムス・ボス

ヒエロニムス・ボスは本名ヒエロニムス・ファン・アーケンです。ブランバント地方のスヘルトーヘンボスの町にいる画家であることを人々に分かってもらうために名前を改めました。自作に署名をした最初のネーデルラント出身の画家のひとりでもあります。

ボスの作品の多くは同時期の画家同様、キリスト教の物語にまつわるものです。主題はキリストの受難や聖人たちですが、ボスの絵画は無数の奇怪な生き物たちによって独創的な世界が展開されています。

≪聖クリストフォロス≫1500年頃(作品番号42)には、家として描かれた瓶が木からぶら下がっていたり、背景の廃墟からに奇妙な竜が覗いていたり、ボス独特の表現が描きこまれています。

巨人レプロブスは危険な川を渡る旅人を背負い対岸に送り届けることで、世界で最も力のある人物を見つけ仕えることを望んでいました。ある日小柄な少年を背負いましたが、徐々に彼の体重は重くなったのでレプロブスがどうしてこんなに重いのかと問うと「世界と世界の創造者を共に背負ったから」と答えました。巨人はキリストを背負う者という意味のクリストフォロスと名を改めました。

ギリシャ語で魚はイクトゥス、「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べるとイクトゥスとなり、古代、魚はイエスを表す図像でした。杖に吊るされた魚は血を流しています。これはキリストの磔刑を暗示しています。射殺された熊が木に吊るされようとしていて、狐の死骸も見えます。悪に対する勝利を表しているのでしょうか。

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ヒエロニムス・ボス≪聖クリストフォロス≫ 1500年頃 油彩、板 Museum BVB Rotterdam, the Netherlands(Koenigs Collection)

またボスは、キリスト教以外の主題である人々の日々の暮らしを描いた最初の画家の一人でもあります。長く続いた宗教絵画の時代から風俗画が描かれるようになったきっかけは、本展でも紹介されるヒエロニムス・ボスの存在が大きく、彼が登場することで、風俗画や風景画など新しいジャンルが画家たちに広がり、そんな中でブリューゲルが独自の画風を築き上げました。

≪放浪者(行商人)≫1500年頃(作品番号41)はボスの作品ですが、聖書の物語でも聖人の物語でもなく日常生活が主役です。猫の皮と木の杓を商い、靴の修繕も請け負う行商人を描いています。服はほころびていて、左右不揃いの靴を履いています。貧しいこの人物の背後には娼家が見えます。彼はここから出て来たのか、そそくさと通り過ぎようとしているのかは解りません。

最新の解釈では、行商人は男性一般を指し、男は誰でも人生を歩む一歩ごとに判断しなければならず、またありとあらゆる誘惑にさらされることを表しているそうです。もともと三連画の両翼の外側に描かれた二枚の絵だったそうで、切り取られこのような1枚の絵画として存在しています。この主題が単独で語られる価値があると考えたのかもしれません。円形なのは、鏡を模しているとすれば、私たちの姿を写しているとも思えます。

Ⅵ ボスのように描く

1516年にボスは亡くなりますが、彼の工房はしばらく続き複数の作品が制作され、死後もその画風は強い影響を持ちます。16世紀以降に入っても、かなりの期間「ボスっぽい」作品は描かれたようです。

ボス自身は、実は版画を一度も手がけませんでした。けれども同時代、同街に暮らした、アラールト・デュアメールがボスの想像力から生まれた主題やモチーフで版画を制作したことは良く知られているそうです。ボス風版画は1550年代以降のもので、没後50年を過ぎてボス・リバイバルが本格化しました。

このことに貢献したのが版元のヒエロニムス・コックで、創案者としてボスの名前が記されていましたが、それらの作品を仕上げたのは、ピーテル・ファン・デル・ヘイデンやファン・ドゥーテクム兄弟などの銅版画製作者、またピーテル・ブリューゲルも重要な版画制作者でした。

Ⅶ ブリューゲルの版画

ブリューゲルはイタリアに絵画の修業に行ったのですが、その影響は少ないと言われています。彼がイタリアから戻ってから、アントウェルペンの版画業者ヒエロニムス・コックが刊行する版画集の下絵を多く描きました。コックはいち早くブリューゲルの才能を見抜いたのかもしれません。ブリューゲルが制作した版画は、その頃人気だったヒエロニムス・ボスの絵を版画にした作品だったので、彼はボスに大きな影響を受けました。

コックはブリューゲルに「ボス風」の下絵を描くことを求め、それに答えたブリューゲルは「第二のヒエロニムス・ボス」と言われるようになりました。

ブリューゲルは下絵を考案しましたが、ほとんど制作には関与しませんでした。エッチングの≪野ウサギ狩り≫1560年頃(作品番号76)だけがブリューゲルが版画制作の全工程を担った作品です。

≪大きな魚は小さな魚を食う≫1557年(作品番号66)は、諺を絵画にしています。大きな魚が中央に横たわり兵士が特大のナイフで腹を切り裂いています。その胃からは食べられた小さな魚が姿を見せています。手前の舟に乗っている父親は息子に、大きな魚は小さな魚を食うことを教え、子供は理解したことを告げるため指を指します。その先には別の魚がもう一人の男によって腹を裂かれています。

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ピーテル・ブリューゲル1世 彫版:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン≪大きな魚は小さな魚を食う≫ 1557年 エングレーヴィング Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

Ⅷ 「バベルの塔」へ

ブリューゲルの代表作の一つは≪バベルの塔≫でしょう。「バベルの塔」とは旧約聖書の創世記の物語に登場します。人々は天に届くほど高い塔を建て、名を上げようとします。思い上がった人々に対し主は大変腹をたてます。

創11章:主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、かれらが何を企てても、妨げることが出来ない。我々は降りて行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主はかれらをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

1563年に描いた≪バベルの塔≫はウィーン、美術史美術館にあります。本展のロッテルダム、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館蔵はウィーンの約半分の大きさですが、ウィーンの作品にはない新たな挑戦を試みています。まず地平線を低くすることで、威圧感をアップしています。またウィーンの作品は自然の岩石で作られていますが、ボイマンス美術館蔵の「バベルの塔」は人の手で焼いた煉瓦で建てられています。このことによって人の傲慢さを強調しているのです。

また、クレーンにより建材を持ち上げているところ、木枠によるアーチの架構作業、さまざまにデザインされたアーチ、大量に搬入された煉瓦、波止場での煉瓦の陸揚げ、村の煉瓦窯と煉瓦置き場など、バベルの塔の周辺が詳細に描かれています。

低層部の煉瓦は風雨にさらされて灰色ですが、最上部は鮮やかな赤です。このことは工事が大変長く続いていることを表しています。この塔は完成することなく人々はバラバラにされてしまいます。ブリューゲルは、カトリックとプロテスタントに分断されてしまうネーデルラントの運命に重ねたのかもしれません。

またこの場面は、ちりぢりになってしまう直前の統一された人類の姿と見ることもできます。ひとつになって同じ目的のために労働している姿をこのまま続けていくにはどうしたらよかったのでしょう。現代にも通じるお話しとして考えてみたい作品でもあります。

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ピーテル・ブリューゲル1世≪バベルの塔≫ 1568頃年 油彩、板 Museum BVB Rotterdam, the Netherlands

 鑑賞ポイント

オランダを代表する美術館の一つであるボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館から、ピーテル・ブリューゲルの≪バベルの塔≫24年ぶりの来日です。日本でも大変人気のある画家ですが、世界に現存する油彩画は40点余りで、鑑賞できる機会は大変貴重です。

また、ヒエロニムス・ボスの≪放浪者(行商人)≫と≪聖クリストフォロス≫も日本初公開で、ボスもまたブリューゲル以上に希少で、展覧会の出展が非常に難しい画家のひとりです。

庶民の生活を描いた風俗画や景色が主役の風景画などを描いたネーデルラントの作品は、それまでの宗教画や肖像画とは異なった親しみやすさを持つとともに、私たちに「してはいけないこと」を教えてくれています。

15世紀末から16世紀にかけてのネーデルラントの絵画史の流れを知るとともに、作法や体裁にとらわれない新しいジャンルの絵画、そこに暴かれた人間の愚かさや弱さを見つけていきましょう。ユーモアたっぷりに表現されたネーデルラントの絵画の中に込められたメッセージを受け止めながら鑑賞したい展覧会です。

 


特別展「雪村ー奇想の誕生ー」

特別展「雪村ー奇想の誕生ー」 終了しました。

会期:2017年3月28日(火)~5月21日(日)
場所:東京藝術大学大学美術館(上野公園)

室町時代は、それまでの日本にみられなかった新しい絵画様式が登場し、芸術界を席巻しました。それは水墨画です。母体である禅宗という自らの中に仏を見出そうとする仏教が中国からもたらされて、中国宋時代の芸術への強い憧れを持って流行しました。

15世紀の詩画軸全盛時代は中国的要素の強い作品が制作され、その後雪舟が登場して日本の水墨画が確立していきます。墨一色で描き、しかも描かれない部分に画者の秘めた感情が宿り、観る者は画家と同じように画中に感情移入することによって初めて真情を理解できるとする水墨画は、雪舟により和様に転じます。それまでの観念的な作画から「写生」という絵画本来の在り方が導入されたのです。

中国画の表現に学んだ初期水墨画から、雪舟が和様の水墨画を確立、その後の16世紀の中盤以降に室町時代の水墨画としての結末、また続く近世を予感させる水墨画を描いたのが雪村です。雪村は雪舟を敬愛していましたが、自らの画風が雪舟と異なることを『設門弟資云』に書き残しています。

戦国武将の一族に生まれ雪舟を慕い、京都に一度も赴くことなく東国で活躍した雪村は、動感のあるドラマティックな水墨画を描きました。

その独創的な画風は、尾形光琳や狩野芳崖ら近代の画家たちにも大きな影響を与えました。

≪雪村とは?≫

雪村周継(せっそんしゅうけい)は、生年は定かではありませんが、1489から1492年の間に常陸国(現在の茨城県常陸大宮市)で武家の一族に生まれました。父親が雪村よりも庶子に家督を継がせようとしたため、自ら出家して禅僧となりました。もともと画が好きな雪村は、雪舟の筆法を慕い私淑していました。常陸時代は、画僧雪村が誕生する第1期目の修業時代にあたり、誕生から雪村画の一旦の完成までの重要な時期です。

1546年(50代)までに常陸を出発、会津へ向かいます。会津で蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を伝授、鹿沼の今宮神社に神馬図を奉納します。その後、佐野、足利をまわり小田原、鎌倉へ向かったとも考えられています。小田原・鎌倉滞在期が第2期目で、中国の牧谿や玉澗を学び、大きく飛躍した時代です。

1560年頃(60代半ば)、小田原・鎌倉を離れ再び会津を訪れ、70歳の頃には三春で制作を行っていたとされています。第3期は雪村芸術の絶頂期です。

1573~1590年、およそ86歳で≪瀟湘八景図屏風≫(茨城県歴史館蔵)を描きます。その後まもなく三春で亡くなったと考えられています。

1章 常陸時代 画僧として生きる

常陸国の部垂(へたれ)に佐竹氏の一族として生まれた雪村は、幼くして佐竹氏の菩提寺で夢窓疎石を開山とする正宗寺に入り修行し、そこで多くの絵画に出会いました。

常陸での修行時代と小田原・鎌倉に至るまでに描いた作品を紹介する本章では、修業した正宗寺に所蔵され雪村の画僧としての出発点のひとつ≪滝見観音図≫(作品番号12:4月23日まで展示)(茨城:正宗寺蔵)や常陸時代の後半に構えた下村田のアトリエで描かれた≪夏冬山水図≫(作品番号28:4月23日まで展示)(京都国立博物館蔵)、≪風濤図≫(作品番号29:展示期間4月25日~5月21日)(京都・野村美術館蔵)などの傑作が展示されます。

≪風濤図≫は、小品ながら大自然に立ち向かう気迫みなぎるダイナミックな作です。大自然の猛威を表現した本作は、日本画の枠を超えた印象を持っています。

左下から右上に吹きすさぶ激しい風雨に、左下の樹木と竹は大きくしなっています。家の屋根もひしゃげているようです。荒れ狂う波と闘っている小船の帆も風をいっぱいに受け、船体は波と共に斜めに傾いて描かれていて、必死に自然の驚異と闘っている様子が伝わってきます。雪村の「運命と闘う孤独」を絵画に込めたと感じる人も少なくないでしょう。

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雪村筆≪風濤図≫ 重要文化財 1幅 22,1×31,4㎝ 京都・野村美術館蔵 (展示期間:4月25日-5月21日)

章 小田原・鎌倉滞在 独創的表現の確立

50代半ばの頃、雪村は常陸を離れ会津を訪れます。守護大名蘆名盛氏(あしなもりうじ)に古画の鑑賞法を授けたと伝わっています。後に小田原・鎌倉へ向かいます。小田原では、北条氏と大徳寺(京都)とのつながりから育まれた文化の恩恵を受けました。この時期雪村は、北条氏が集めた中国絵画や鎌倉の禅宗寺院に伝来する中国文物などの作品を学び、画技の幅が大きく広がりました。

≪瀟湘八景図巻≫(作品番号32:展示期間中巻き替えあり)(大阪・正木美術館蔵)は、墨で描いた界線の中に瀟湘八景が描かれています。「瀟湘八景」とは、瀟水と湘水が合流して注ぐ中国の洞庭湖付近でみられる八つの情景です。中国では北宋時代から描かれていて、日本では室町中期以降に愛好された画題のひとつです。

本作では、瀟湘八景の八種類の景色は山間の人里を描いた山市晴嵐(さんしせいらん)で始まり、遠く雁が連なる平沙落雁(へいさらくがん)、おぼろげな月が浮かぶ洞庭秋月(どうていしゅうげつ)、直線的な雨が降る瀟湘夜雨(しょうしょうやう)、ひときわ高い山の上に立派な伽藍を描く煙寺晩鐘(えんじばんしょう)帆を下ろした舟が岸辺にとまる遠浦帰帆(えんぽきはん)、綱を干す砂洲に夕暮れがやってくる漁村夕照ぎょそんせきしょう)、全てが雪に埋もれる江天暮雪(こうてんぼせつ)の順に描かれています。

≪琴高仙人・群仙図≫(作品番号38:展示期間4月25日~5月21日)(京都国立博物館蔵)は、『列仙伝』の琴高のエピソードを描いています。琴高は弟子たちに、龍の子をもってくるといい涿水に入りました。約束の日に弟子たちと多くの見物人が集まる中、鯉に乗った琴高が涿水から現れたというお話しです。本作は三幅で、中幅に巨大な鯉に乗って川から飛び出した琴高を、左右幅にそれを見守る弟子たちを描いています。顔は細線で、衣は淡墨と打ち込みの強い濃墨の線を組み合わせて描かれていますがこれは雪村作品に多く見られる手法です。よく見ると右幅の従者らしき童子は琴高を見ずに私たちに視線を向けています。

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雪村筆≪琴高仙人・群仙図≫ 重要文化財 3幅のうち右幅のみ 121,0×56,0 京都国立博物館(展示期間:4月25日-5月21日)

章 奥州滞在 雪村芸術の絶頂期

60代半ば頃、鎌倉を離れた雪村は会津を再び訪れ、70歳の頃には三春で制作活動を行ったとされています。雪村はこの頃、生涯の中でも多くの力作、大作を世に残しました。

≪呂洞賓図≫(作品番号49:4月23日まで展示)(奈良・大和文華館蔵は、この時代の代表作で、彼の奇想を決定的に印象付ける作品です。雪村の人物図には仙人や道教の人物が多いのです。

龍の頭の上で両手を広げて頭をのけぞらせるように天空を眺め龍を威嚇しています。その頼もしい背中は激しく風にひるがえる衣によって、より動じない力強さを感じさせています。ひげや衣紋、波頭などがそれぞれ独立した方向にダイナミックに動いていて、呂洞賓が起こした風なのか、彼を中心とした風の渦が仙人の不思議な力を表現しています。

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雪村筆≪呂洞賓図≫ 重要文化財 1幅 119,2×59,6㎝ 奈良・大和文華館蔵 (展示期間:4月23日まで)

章 身近なものへの眼差し

雪村作品の中には、身近な動植物を題材にしたものが数多くあります。奇想の画家とは一線を画した繊細で細やかな作品は常陸時代から晩年まで描かれ、雪村のやさしい眼差しを感じることが出来ます。

ここでは、院体画風の花鳥画や牧谿風の蕪図、また雪舟風の花鳥図など雪村の学習を示す作品だけでなく、やや誇張された白鷺の≪竹に鷺図≫(作品番号76:展示期間4月25日~5月21日)(神奈川県立歴史博物館蔵)や、とぼけた顔でこちらを見るカマキリが描かれた≪菊竹蟷螂図≫(作品番号77:展示期間4月25日~5月21日)も楽しい作品です。

日常に何気なく存在する身近なものを描いた作品は、物語や逸話よりも雪村の筆を十分観察することのできる画題だともいえます。勢いのある濃墨で描かれた細い竹の葉と鷺の嘴、柔らかでふっくらとした淡墨の雀など、雪村の筆技も楽しんでください。

章 三春時代 筆力衰えぬ晩年

雪村は、70代の時に福島・三春に住みました。晩年を過ごした「雪村庵」を拠点に活動し、また各地を往来して制作活動を続けました。およそ86歳という年齢にかかわらず筆力は最後まで衰えることなく描き続けた晩年の作品が第5章です。

晩年に描いた≪自画像≫(作品番号106:展示期間5月9日~5月21日)(奈良・大和文華館蔵)は、山水を背景にしています。雲のかかる満月が雪山の上に昇っていて、袈裟をまとい両手で如意を持つ老僧が履物を脱いで竹製の座椅子に座っています。眼光は鋭く、自負に満ちた姿のようですが、背景の風景の方が存在感があるとも感じられます。自然の大きさにはかなわないという意味を含んでいるのでしょうか。

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雪村筆≪自画像≫ 重要文化財1幅 65,2×22,2cm 奈良・大和文華館蔵 (展示期間:5月9日ー5月21日)

章 雪村を継ぐ者たち

雪村の作品は、同時代の画家や弟子たちに影響を与えましたが、雪村派をつくるには個性的すぎたとも言われています。その雪村の個性は、時代を隔て多くの画家たちを魅了しました。

尾形光琳は雪村を深く敬愛しました。尾形光琳といえば琳派の大成者で、きらびやかな作風で知られていて、雪村の画風とは接点が無いように感じますが、光琳は雪村の作品をいくつも模写しています。また、光琳が所持していた画印に「雪村」印作品番号10:展覧会期間中展示)があり、光琳が雪村に私淑していたことがわかります。光琳の代表作≪紅白梅図屏風≫(京都国立博物館蔵)と雪村の≪欠伸布袋・紅白梅図≫(作品番号44:展覧会期間中展示)(茨城県立歴史館蔵)を比較する展示がされています。(≪紅白梅図屏風≫をプリントしたものが展示されています)全体の構図、梅の枝ぶりなど興味深いことに共通点が見出されるのです。

また近世では狩野派の絵師たちが雪村画を粉本として継承、明治になって岡倉天は雪村を美術史的に再評価、同時代の狩野芳崖橋本雅邦らが、狩野派を脱して新たな日本画の創出する際に積極的に雪村を研究しました。

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橋本雅邦筆 ≪昇龍図≫1幅 112,7×41,5㎝ 埼玉・山崎美術館蔵(展示期間:4月23日まで)

 鑑賞ポイント

5年前から準備され、15年ぶりに開催される大回顧展です。墨の濃淡、筆の方向や勢い、太細の使い分け、細部表現のこだわりなど、雪村の筆の技術は実物を観ることでより深く鑑賞できます。

また、雪舟はすべてを静止した状態で捉えて本質的な姿や美しさは画の内部にあるとしました。一方雪村の作品はすべてが動いています。そして不安定だからこそ劇的で、観る者にストレートに伝わるメッセージがあります。静の雪舟の次の時代を担った、動の雪村のダイナミックでユーモアあふれる、現代のアニメにも通じるフレッシュでかっこいい雪村を感じてください。雪村の作品をこれだけ大量に観ることも貴重な経験になると思います。

展示期間が限られている作品が多いので、ご覧になりたい作品の展示期間をホームページで確認しておでかけください。(下の公式サイトから作品目録のダウンロードページをご覧ください)

 


「ミュシャ展」
「ミュシャ展」

「ミュシャ展」 終了しました。

会期:2017年3月8日(水)~6月5日(月)
場所:国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)

アルフォンス・ミュシャ(チェコ語発音ムハ、1860-1939)はアール・ヌーヴォーを代表する芸術家として広く知られています。ミュシャはオーストリア領モラヴィア(現チェコ)生まれ。ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡り、34歳の時に、女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手掛け成功をおさめます。

美しい女性と流麗な植物文様を用いた華やかなポスターや装飾パネルは、その後のミュシャの仕事の中心となります。一方、故郷チェコやルーツであるスラヴ民族のアイデンティティーを題材にした作品も多く描きました。

2017年は日本とチェコが国交を回復してから60周年を迎える年にあたります。これを記念して、ミュシャが晩年の約16年を費やして描いた≪スラヴ叙事詩≫(1911-26)全20点が、チェコ国外では世界で初めて公開されます。

ミュシャとは?

1860年、オーストリア領モラヴィア(現チェコ)のイヴァンチツェに生まれます。10代のころから裁判所の書記として働きながらも、多くの時間を素描にあてていました。10代後半にプラハの美術アカデミーの受験に失敗し、ウィーンで舞台装置などを手掛ける工房の助手として働き始めます。20過ぎに、その工房の経営危機から解雇され、ミクロフ(チェコの都市)の大地主クーエン=ベラシ伯爵の援助によりミュンヘンの美術アカデミーで学びます。卒業後も伯爵の援助でパリのアカデミー・ジュリアンに入学します。

1888年に伯爵の援助を打ち切られたため雑誌の挿絵の仕事で生計をたてることになったミュシャは、その2年後フランスの演劇雑誌『舞台衣装』の挿絵制作の仕事を始めます。1894年の年末に戯曲「ジスモンダ」に主演するサラ・ベルナールのためのポスターを制作、1895年1月1日に街頭に貼り出されたポスターは大好評、その成功からサラ・ベルナールと6年間の契約を結ぶことになりました。

その後、1900年のパリ万博でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を手掛け銀賞を受賞、1901年レジオン・ド・ヌール勲章を受章するなど、芸術家として成功していきます。

1908年、ボストン交響楽団のコンサートにてスメタナ作曲の交響詩「わが祖国」を聴き≪スラヴ叙事詩≫制作への意欲を高めます。1910年、50歳のときボヘミアに戻り、コロレド・マンスフェルド伯爵より≪スラヴ叙事詩≫制作のためのアトリエ、そして住居としてズビロフ城を18年間の契約で借ります。

≪スラブ叙事詩≫を制作するアルフォンス・ミュシャ、ズビロフ城アトリエにて、1923年

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1911年、≪スラヴ叙事詩≫の制作を開始、1928年に、プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)にて全20点のうち19点を展示しました。

1939年、ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻、ミュシャはゲシュタポに逮捕され数日間尋問を受けます。後に釈放されますが、前年から患っていた肺炎が悪化、7月14日にプラハで他界します。80歳の誕生日である7月24日の10日前のことでした。

≪スラヴ人とは?≫

スラヴ人とは言語学上の概念で、インド・ヨーロッパ語族の中のスラヴ語派のことです。一つの民族を指してはいません。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)、西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)、南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられます。

チェコは、西のボヘミア地方と東のモラヴィア地方があり、9世紀にこのモラヴィアを中心にモラヴィア王国が栄えます。モラヴィア王国はチェコとスロヴァキアの共通の祖とされます。(№3≪スラヴ式典礼の導入≫は9世紀のモラヴィア王国を描いています)

王国が崩壊した後、神聖ローマ帝国の一つとしてプシェミスル朝ボヘミア大公になり、プジェミスル家は9世紀末にボヘミアを統一し王国となります。(作品としては№5≪ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世≫をご覧ください)

1306年プシェミスル家が断絶したのち、ルクセンブルク家(ドイツ系)が1310~1437年までボヘミア王を世襲し、ドイツ化が進みます。1346年の夏にボヘミア王とドイツ王になったカレル1世は、1355年に神聖ローマ皇帝カール4世に即位します。(1346年の出来事として№6≪東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン≫があります)

カール4世は戴冠の旅の途中、特使を派遣しステファン・ドゥシャン皇帝に祝福の手紙を送り、ビザンティン帝国との戦いに際しカトリック教会と同盟するよう訴えました。カール4世の母方がスラヴ出身でスラヴ語も理解したそうです。西ローマ皇帝がカール4世、東ローマ皇帝がステファン・ドゥシャンという、ローマ帝国の二人の皇帝がスラヴ人でした。

15世紀に入り教会大分裂が起きカトリックが動揺している頃、プラハ・カレル大学の総長ヤン・フスが教会改革を断行。教会を牛耳っていたドイツ人を追放します。(この時代に関連する作品として№8≪グルヴァルトの戦いの後≫、№9≪ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・スフ師があります)

その後ハプスブルク家(ドイツ系)、フス派貴族イジー(これも№13≪フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー≫として描かれています)、ヤゲウォ家(ポーランド系)を経て、再びハプスブルク家がボヘミア王位につきます。

1620年、ピーラー・ホラの戦いでチェコのプロテスタント貴族がカトリックの神聖ローマ帝国に負けてしまい、プロテスタントの人々は移住を余儀なくされます。(№16≪ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々≫は、ボヘミアを追われたコメンスキーを主題にしています)フス派、ルター派、ボヘミア兄弟団など改革派が一掃されてしまい、ハプスブルグ家の支配の下カトリック化が強制的に進められます。

チェコはドイツ人優位の社会となり、チェコの貴族はドイツ化します。チェコ語は、農民と下層階級の言葉として残り、学問や文学の世界から姿を消してしまいます。この状況が変化するのが18世紀末以降の民俗復興運動です。

18世紀末以降、民族復興運動でチェコ人の民族的な団結が求められ、弱小のチェコ人が強大なドイツに対抗するため、スラヴ人の存在に光があたりました。これが汎スラヴ主義です。

≪スラヴ叙事詩とは?≫

故郷を愛したミュシャが描いた、チェコとスラヴ民族の歴史から主題を得た壮大な絵画の連作です。

1928年、チェコスロヴァキア独立10周年に当たる1928年、プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で公開されましたが、若い世代からは保守的な伝統主義と評価されてしまいました。

さらに、経済危機や政治状況などから、当初予定されていた常設のための美術館は建設されず、第二次世界大戦終結後にミュシャの生まれ故郷近くのモラフスキー=クルムロフ城に寄託されました。1960年代以降、モラヴィアのクルムロフ城で夏期だけ公開されてはいましたが、ほとんど人の目に触れることはありませんでした。2012年に80年以上の時を経てやっとプラハのヴェレトゥルジェニー宮殿に戻され、全作品が公開されました。

超大作 ≪スラヴ叙事詩≫

1912年に完成した3点は≪原故郷のスラヴ民族≫≪リューゲン島(ルヤーナ島)でのスヴァントヴィート祭≫≪スラブ式典礼の導入≫です。

この3点は、青を基調としている点、歴史的な出来事と象徴的な人物を組み合わせている点、大きさなどから一つのグループとして観ることが出来ます。

≪原故郷のスラヴ民族≫1912年

                 描かれている時代:3-6世紀 舞台:サルマティアの平原

・宇宙を想わせる深い青で描かれた作品です。左下には脅えた二人がうずくまり、右には浮遊する3人の人物が描かれています。くっきりと描かれたこの二つの人物グループの背景には、地平線をなぞるように群像が見えています。

・この作品は、紀元前3~6世紀頃のスラヴ民族の苦難を描いています。左の男女は略奪者に村を焼かれ、逃げ延びたスラヴ人です。足元には農耕民族であったスラヴ人を象徴する鎌が描かれていますが、楽園を追放されたアダムとイヴになぞらえられています。

・脅えてうずくまるスラブ人の着ている白い服は、彼らの純粋さや無垢、無抵抗を表しているそうです。その白い色は、空の星の白と呼応しています。本作以外にもスラヴ叙事詩の連作には「白」が効果的に描きこまれています。

・画面右上の中央の人物は古代スラヴ人が信仰した多神教の祭司で、目を閉じて両手を広げ神に救いを求めています。祭司の左の青年は「正義の戦い」で、武器を身に着けています。左の少女は「平和」の寓意像で、緑葉の冠は平和を象徴しています。

呼応しています。本作以外にもスラヴ叙事詩の連作には、白の衣など「白」が効果的に描きこまれています。

・預言者の頭部は画面から突き出していて、彼らが村の男女とは異なる次元にいる事を示しています。


≪スラブ叙事詩「原故郷のスラブ民族」≫1912年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

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2≪ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭≫1912年

        描かれている時代:8-10世紀 舞台:アルコナ(ルヤーナ島/現リューゲン島、ドイツ)

・空中に浮遊する人々と、引力に囚われているような地にいる人々とが描かれています。浮遊するグループも左右に二つに分かれています。浮遊する人々は青、地の人々は白を帯び、大きくそびえるオークの木や山肌は夕日で赤く染められています。

・本作は、ルヤーナ島での祭りを地上に描きながら、この島で起きた悲劇的な史実を空中の人物たちで暗示しています。

・バルト海に浮かぶリューゲン島(チェコ語:ルヤーナ島)の町アルコナは、古代スラヴ人の聖地で、民族神スヴァントヴィートを祀る神殿がありました。8-10世紀にかけて、アルコナでは毎年大がかりな収穫祭が開かれ、遠方からも巡礼者が訪れました。

・地上には夜明けまで続く祭の様子が描かれています。広場では少女たちが踊り、人々は座り談笑していて、左奥には生贄の牡牛や祭司が見えます。

・けれども画面上部に浮遊する人物たちは、これから起きる災難を予兆しています。1168年にデンマーク王ヴァルテマールが島を征服、古代スラヴ人の神殿や神像を破壊してしまいます。画面左上からは、ゲルマンの戦神トールが狼の群れを従え迫って来ています。中央上には、角と輝く剣を手にしたスヴァンヴィートが立ち、力尽きたスラヴの戦士を受け止めています。その左、手を縛られた男女三人は、スラヴ人の拘束と従属を示しています。

・本作の副題は「神々が戦いにあるとき、救済は諸芸術の中にある」です。手を縛られた人物の前で三人の楽師が音楽を奏で、その下では木彫師の青年が太陽の偶像を彫っています。

・地上の中央では、子供を抱く白い衣の母親が描かれていて、じっとこちらを見つめています。彼女は≪ヴィートコフ山の戦いの後≫や≪ヴォドニャニでのペトル・ヘルチツキー≫などにも描かれています。彼女は、作品の世界と私たちの世界を仲介する存在です。

3≪スラヴ式典礼の導入≫1912年

           描かれている時代:9世紀 舞台:ヴェレフラット(モラヴィア王国/現チェコ)

・青を基調にした青年と浮遊する人物、そして白く描かれた地上の人々、右端の暗い色のグループで構成されています。

・本作はスラヴ式典礼が失われるという行く末を暗示している作品です。

・9世紀前半にスラヴの国家、モラヴィア王国が誕生しました。ロスティスラフ王は自国の教会のためにビザンティン帝国に宣教師の派遣を要請し、キュリロスとメトディオスの兄弟がモラヴィア王国の教会のために赴きました。彼らはスラヴ語を表記するグラゴール文字(のちにキリル文字に代わる)を考案、スラヴ語で聖書を翻訳、スラヴ式典礼を導入しました。

・けれどもメトディオスの死後、ロスティスラフ王の後継者スヴァトプルク王はローマ教皇に従い、メトディオスの弟子たちを追放してしまいます。彼らはブルガリアとロシアに避難します。

・本作は、兄弟が王国に到着した約20年後にスラヴ式典礼が認められた場面を地上に、典礼が失われる未来を空中に描いています。宮廷の中庭では、スヴァトプルク王の前で教皇ヨハネス8世からの勅命書が読み上げられています。画面中央やや左の初初の人物はメドディオスです。弟子を伴って立っています。

・上空には兄弟の派遣を皇帝に願ったロスティスラフ王と弟子を伴ったキュリロスがいます。フードを被ったキュリロス(すでに故人)はスラヴの信徒たちを慰めていて、スラヴ式典礼が失われることを暗示しています。空中に浮かぶ人物像は兄弟の守護者となるブルガリアとロシアの聖人で、整然と並ぶ姿は規律と秩序と団結を表しているようです。

・手前に立つ青年の持つ輪は「団結の力」を示しています。彼は地上にいますが青っぽく描かれていて、二つの世界をつなげる役割を果たしています。そして私たち観者と作品の仲介役でもあります。

≪スラヴ叙事詩「スラヴ式典礼の導入」≫1912年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

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4≪ブルガリア皇帝シメオン1世≫1923年

             描かれている時代:9世紀―10世紀初頭 

             舞台:ブレスラフ(ブルガリア帝国/現ヴェリキ・プレスラフ、ブルガリア)

・中央の高い位置に描かれた人物が何かを指示し、その周りでは、多くの人々が知的な労働をしているようです。厳かな宮殿には似つかわしくない、あわただしい様子がうかがえます。何か急いで事を進めているのでしょう。

・スラヴ式典礼は導入されましたが、メトディオスが亡くなると彼の弟子たちはモラヴィア王国を追放されブルガリアやロシアに避難しました。ブルガリアはシメオン皇帝が統治していました。シメオンはモラヴィアから逃れてきたスラヴ語派の聖職者を受け入れたのです。

・シメオンはビザンティン帝国で育ったので、自国の文化をビザンティン帝国のような高度なものにしようと考えていました。哲学者、文学者、言語学者を庇護し、ビザンティンの書物や教会文献をスラヴの言葉に翻訳させ、スラヴ文化を反映させました。本作はスラヴの文学と美術の幕開けを描いています。

・首都プレスラフにあった皇帝の間が舞台になっています。中央の玉座にいるシメオンが指し示すドームには天使が描かれていて、天上に繋がっていることを表しています。ドームの外壁や床などには、ミュシャの得意とした装飾が施されています。

・本作は第4作とされていますが、実際は12から15作目に制作されたものです。


5≪ボヘミア王プジェミスル・オタカル2世≫1924年 

     描かれている時代:1261,1264年 舞台:プラチスラヴァ(ハンガリー王国/現スロヴァキア)

・≪ブルガリア王シメオン1世≫と同様、室内での出来事を描いています。ミュシャの得意とする装飾的で細やかなテクニックで室内を描いている点も2つの作品の共通点です。細やかな刺繍の布やドーム内の紋章なども見どころです。

・中央の人物はボヘミア王プジェミスル・オタカル2世で、右手はハンガリー王子ベーラの手を、左手は婚姻を祝う客人の手をとっています。

・プラハを本拠地としたプジェミスル家は9世紀末にボヘミアを統一しました。その後勢力を拡大し、オタカル2世の時には強大な力を持っていました。農地や鉱山の開発などで蓄えた経済力と軍事力で領土を拡大、オタカル2世は「鉄と黄金の王」と呼ばれていました。

・彼は敵対していたハンガリーと婚姻によって友好関係を結びました。オタカル2世自身は、1260年の戦いで破ったハンガリー王の孫娘クンフータと1年後に結婚、その3年後に彼の姪とハンガリー王の息子ベーラが結婚しました。

・本作は、この2つの結婚を描いているとされていて、客人であるロシアやセルビア、クロアチアやスラヴ諸国の君主を歓迎する様子を描いています。

・ミュシャはオタカル2世をスラヴの連帯を掲げた人として捉え、ボヘミアの王家とスラヴ諸国との友情が強調されています。絶大な力を持つオタカル2世を恐れたドイツ諸侯は彼をローマ皇帝とせず、スイスの弱小領主であったハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝にしたことで、オタカルとルドルフは1278年に、モラヴィア南部のマルヒフェルトで決戦、オタカルは敗死しました。

6≪東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン≫1923年

            描かれている時代:1346年  舞台:スコピエ(セルビア帝国/現マケドニア)

・セルビアの民族衣装を着て、花や枝を手に微笑を浮かべまっすぐこちらを見る少女たちを先頭に、長い行列が描かれています。彼らは教会から出て来たようです。

・この作品は1346年にスコピエ(現マケドニア共和国首都)で行われたステファン・ドゥシャンの戴冠式を描いています。ミュシャはローマ皇帝の戴冠式典ではなく、即位後に教会から出てきた皇帝を祝う行列を描いています。

・ドゥシャンは14世紀セルビアの王で、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の衰退を機にバルカン半島へ領土を拡大、1346年に自らをセルビア人とギリシャ人の皇帝と宣言、2年後に正式にローマ皇帝に即位しました。

・1349年には法律を成文化、ドゥシャン法典を編纂しました。本作の副題は「スラブの立法」で立法者としてのドゥシャンを讃えています。

・少女たちの後ろには皇帝の兜と剣を運ぶ貴族の一団が描かれています。作品中央には臣下に囲まれたドゥシャンがいますが、存在感は前の人々に比較して薄いようです。その後ろに妻や息子、大主教、さらに後ろにはヨーロッパ諸国からの使者が続きS字を描いてうねりながら行進しています。

・1355年にボヘミア王カレル4世が神聖ローマ帝国皇帝に即位、ヨーロッパの大部分がスラヴ人によって治められます。

≪スラヴ叙事詩「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」≫1923年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

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8≪グルンバルトの戦いの後≫1924年

                描かれている時代:1410 舞台:グルンヴァルト(ドイツ騎士団国/現ポーランド)

全体にグレーがかり単一のトーンで描かれた画面中央、少し高くなったところに男性が立っています。その面前にはたくさんの死体が転がっています。投げ出された剣や鎧も地面に見えます。死体とともにある白地に黒い文字の旗はドイツ騎士団のものです。

・1410年、現ポーランド共和国のグルンヴァルトでドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍間で戦闘がありました。連合軍は勝利し、この史実は北方スラブ同盟の力を象徴するとしてしばしば歴史画の主題となっています。

・ミュシャは激しい戦闘の場面を描くのではなく、勝敗が決した次の日の朝、ポーランド王ヴワディスワフ・ヤギェウォが戦場を検分する様子を描いています。戦闘に勝利した連合軍は勝利を喜ぶというよりも、悲惨は光景を前に暗く沈んでいます。背景の黒雲がそれを象徴しています。

・王の背後の一団の中に、ボヘミアの義勇軍を率いて参戦したヤン・ジシュカも描かれています隻眼の人物が彼です。ヤン・ジシュカはのちにスフ戦争で大活躍します。彼とヤン・フスは19世紀の民俗復興運動において英雄的存在です。

7≪クロムニェシージュのヤン・ミリーチ≫ 3部作「言葉の魔力」左パネル 1916年

                描かれた時代:1372年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ

・建設現場の足場の高いところに黒衣の人物が描かれています。柱に囲まれた地上の部分は白く輝くように明るく、清らかな印象です。左手前には、私たちの方をじっと見ている女性がいます。

・ここはプラハ旧市街の売春宿だったところです。新エルサレムという名前の修道院に建て替えられている場が描かれています。

・ヤン・ミリーチは14世紀の神学者及び宗教改革家で清貧に生き、堕落した教会を糾弾して多くの人に支持されました。

彼はボヘミア王で神聖ローマ皇帝だったカレル4世の協力のもと、売春宿を修道院に建て替え、改悛した娼婦たちを住まわせました。

・足場の高い位置にいる黒い衣をまとっている人物、あるいはアーチが残る崩れた壁の前に立つ人物がミリーチです。

・改悛した女性たちは修道女としての白い衣をまとっています。その周りには脱ぎ捨てた色とりどりのドレスや装身具が地面に散らばっています。

・白く輝く女性たちの前に立ちはだかるように赤いドレスを着たままの娼婦が描かれています。懺悔を拒んでいるのでしょうか。彼女は口を塞いでいます。「嘘をつく罪」の象徴、あるいはほかの女性に悪い影響を与えないように口を塞いでいるのかもしれません。その他にも、蹲って嘆く女性、目を閉じて静かに祈りを捧げる女性などが描かれています。

・ミュシャはチェコの宗教改革期は、ヨーロッパの文化に大きな影響を与えた輝かしい時代と考えていました。

9≪ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師≫3部作「言葉の魔力」中央パネル

                                            1916年

                描かれた時代:1412年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・広大なゴシック様式の天井を持つ教会の内部で多くの人が集まっています。よく見ると画面左の演壇で、身を乗り出すようにして群衆に語りかけている人物がいます。

・彼はヤン・フスで14世紀から15世紀に活動したチェコの宗教改革家です。教会の堕落を批判、チェコ語で説教を行ったことから幅広い人々から支持されました。けれども1415年、コンスタンツ公会議の結果火刑に処せられ、それが約20年続くフス戦争のきっかけとなったのです

・19世紀のチェコで民族復興運動が高まった時、フスは再評価されます。絶対的権力に抵抗したフスは、ハプスブルク帝国の支配下にあったチェコの人たちの共感を呼んだのです。

・この作品は、1412年にプラハのベツレヘムの礼拝堂でヤン・フスが説教をしている場面を描いています。3000人を収容できたという礼拝堂には様々な階層の人々が集まり、熱心にフスの声に耳を傾けています。彼の目の前には、椅子に座る生徒たちのグループ、右の天蓋の下には、ヴォーツラフ4世の妻、王妃ジョフィエが座っています。傍らの侍女は密告者を警戒していうように目を光らせています。奥には様々な身分の人たちがいます。

・実際のベツレヘム礼拝堂は、木製の天井を木柱で支えたものだったそうですが、ミュシャは壮大なゴシック様式の天井を選び、重厚な空間を演出しました。まるで私たちもこの礼拝堂の中にいるような気持ちになります。こちらに背を向けている3人の親子は、私たちを同じ方向に視線を向けています。この作品と私たちの仲介役かもしれません。

10≪クジーシュキでの集会≫ 3部作「言葉の魔力」右パネル 1916年

              描かれた時代:1419 舞台:クジーシュキ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・荒涼とした空地の少し高い丘の上、目印になる高い木のそばの急ごしらえの演壇に聖職者の衣を着た人物が祈っています。遠くから人々が続々と集まって来ています。すでに武装している人もいます。

・1415年、ヤン・スフが処刑されたことをきっかけに、スフ派の信徒は穏健派と急進派に分かれ、急進派の一部は神聖ローマ帝国と衝突をします。この急進派の指揮を執ったのが、8≪グルヴァルトの戦いの後≫で隻眼の人として描かれていたヤン・ジシュカです。

・本作は、1419年にプラハの南にあるクジーシュキの丘でフス派の急進派聖職者ヴァーツラフ・コランダによる説教の場面を描いています。彼は、武力による抵抗を説きました。「言葉の三部作」の右パネルとして、司祭ヴォーツラフ・コランダが言葉によって人々を戦争へと向かわせている場面を描いているのです。

・彼の前には11≪ヴィートコフ山の戦いの後≫にも描かれている太陽の偶像が見えます。プラハやプルゼニュといった周囲の街から集会に参加しようと人々が集まって来ています。

・1434年にフス派の穏健派の一部がローマ・カトリックと和解しフス戦争が収束へ向かうまで、約20年の戦争が始まる直前の場面が描かれているのです。

11≪ヴィートコフ山の戦いの後≫ 1423年

                描かれた時代:1420年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・こちらも荒涼とした平原が舞台で、礼拝が行われているようです。中央には太陽の偶像をもった聖職者が立っていて、その向かいには展を仰いで感謝を捧げている人物がいます。彼の前には武器が集められています。

10≪クジューシュキでの集会≫の翌年、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントのボヘミア王即位に反対したフス派が、プラハ近郊のヴィートコフ山で帝国軍と衝突、フス派が勝利しました。本作はその戦闘そのものでなく8≪グルンバルトの戦いの後≫と同様に、戦闘の後の様子を描いています。

・光の中で立っているのはフス派の急進派の指揮を執い、8≪グルンヴァルトの戦いの後≫で隻眼の人としても描かれていたヤン・ジェシュカです。彼の前の武器は戦利品です。

・画面中央左に移動式の祭壇が置かれて、援軍を率いて勝利に貢献した聖職者と、その前に地面に伏せて祈る聖職者も描かれていて、衣の黒い色が画面に不思議なリズムを与えています。

・画面左下で疲れ果てている女性がいて、その眼は鋭く光っています。彼女は私たちに何を言おうとしているのでしょう。戦争は当事者だけでなく一般の人々を巻き込む悲惨な行為であることを伝えているのでしょうか。

12≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫ 1918年

            描かれた時代:1420年頃 舞台:ヴォドニャヌイ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ

・後景に煙の起ち上っています。手前に横たわる白い衣の人々は他の人たちよりも大きく描かれています。彼らはこの事件の犠牲者でしょう。

・1420年、ボヘミア南部の街ヴォドニャヌイがフス派に攻撃されました。本作はそのフス派襲撃後の様子が描かれています。地面に並んだ犠牲者を前に人々が嘆き悲しんでいます。一人の青年が復讐を誓うように左手を挙げていますが、それを押しとどめている聖書を持つ黒い服の人物はペトル・ヘルチツキーです。

・彼は15世紀の宗教改革家で、フス派の暴力も、教会の堕落にも失望していました。農村に立てこもり祈りと自給自足の静かな生活を送り、戦争を否定、教会権力に縛られない自由な信仰の姿勢を説いた平和主義者でした。

・ヘルチツキーの横に、子供を抱く母親が座っています。彼女はじっとこちらを見つめていて、この場面と私たちの世界との隔たりを縮めます。

13≪フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートのイジー≫ 1923年

                描かれた時代:1462年 舞台:プラハ(神聖ローマ帝国・ボヘミア王国/現チェコ)

・明るい窓の前で立派な聖衣を着た人物がいます。その目線の先の一段高いところに、やはり地位の高い服装の人物が描かれています。

・右端の高い位置にいるのはイジー王です。フス派は急進派と穏健派に割れ、さらに分派も生じて、フス戦争は泥沼化しました。1434年のリバニの戦いでカトリックと提携した穏健派は急進派を壊滅させ、穏健派はローマ教会と和解してフス戦争は終結しました。けれども、ボヘミア王ジギスムントの後継者が相次ぎ早世したことでフス派のイジーが王となりました。

・本作の場面はプラハ王宮内での出来事を描いています。ローマ教皇ピウス2世に派遣された特使が、王が容認するパンとぶどう酒の両方を用いる聖体拝領を禁止するようイジー王に伝えているところです。ローマ教会はパンだけで行います。

・イジーは椅子を蹴倒し決然とこれを拒否しています。周りにはプラハやオロモウツ、ブラティスラヴァから集まった司教たちが射ます。前掲の少年は「ROMA」と表紙に書かれた本を閉じていて、教皇との友好的な関係の終わりを象徴しています。また、窓から差し込む光は解放を表す黄色で、チェコの宗教がローマカトリック教会から解放されたことを表しているのかもしれません。

14≪ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによる

                    シゲットの対トルコ防衛≫ 1914年

            描かれた時代:1566年 舞台:シゲット(ハンガリー王国/現シゲトヴァール、ハンガリー)

・真っ赤な画面を黒い縦長の面が分割しています。黒い部分の左の奥では、激しく横に流れる炎と雲の下で小さく描かれた人々が剣を振り上げています。手前は女性や子供たちでしょうか。右の部分では、櫓のような建造物がありその上で比較的大きく描かれた人物たちがいます。ここにも女性がいて戦闘に参加しているようです。

・1566年、スレイマン大帝率いるオスマン帝国の大群が、ハプスブルグ家統治下のハンガリーに攻め込みました。クロアチアは当時ハンガリーの一部となっていて戦闘に巻き込まれました。本作は、ハンガリー南部のシゲトヴァールの街でオスマン帝国に抵抗するクロアチア総督ズリンスキ陣営の最後の姿を描いています。

・画面奥で大きく手を広げているのがクロアチア総督ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーです。被弾した瞬間を描いているとも考えられています。櫓の一番上に立っているのはズリンスキーの妻、ボヘミア出身のエヴァです。彼女は自爆覚悟で火薬庫に火を投げ込んで、オスマントルコ軍の侵入を阻もうとしたと伝わっています。他の女性たちも手に武器を持っています。

・どろりとした黒いものは煙でしょうか。エヴァにいよる爆発を暗示しているようです。

15≪イヴァンチツェの兄弟団学校≫ 1914年

      描かれた時代:1578年 舞台:イヴァンチツェ(ハプスブルク君主国・モラヴィア辺境伯領/現チェコ)

・木々に緑の葉が茂る穏やかな広場。人々はゆったりとした様子で集まり、数人は白い紙を手にしています。この作品にも、こちらをじっと見つめる人物が左下に描かれています。

・12≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫に描かれていた平和主義者のヘルチツキーへの共鳴から「ボヘミア兄弟団」が誕生します。彼らの高邁な思想は、19世紀の民俗復興運動の担い手たちの精神的な支えとなりました。ミュシャの故郷イヴァンチツェは、兄弟団の重要な文化的拠点でした。

・本作は兄弟団の学校の庭で聖書が印刷されている場面を描いています。小屋では聖書が印刷され、右手から新しい紙が運び込まれ、兄弟団の支部長であるヤン・ジェロティーンが印刷作業を見守る姿が描かれています。人々はめいめいにページをめくっています。左側で運ばれている果物は、宗教改革運動の実りの寓意です。

・この町の聖職者ヤン・ブラホスラフは、聖書を初めてチェコ語に翻訳しました。彼の没後、弟子たちが旧約聖書の訳を追加、詳細な注を付けて刊行したのがチェコ文学の金字塔「クラリツェ聖書」です。

・画面左下には盲人の老人に聖書を読み聞かせる少年がいます。彼は若き日のミュシャがモデルです。

16≪ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々≫1918年

                    描かれた時代:17世紀 舞台:ナールデン(オランダ共和国/現オランダ)

・灰色の大地に流れる水辺の側、椅子に座った人物が描かれています。彼は力なくうなだれています。前景左には人々がいて、嘆き悲しんでいるようです。

・1618年、30年戦争が始まります。ボヘミアでの反乱はその2年後で、プロテスタント軍が皇帝軍に惨敗し、多くの改革派有力者が処刑されました。「ボヘミア兄弟団」もボヘミアから一掃されました。

・ヤン・アーモス・コメンスキーは、フス戦争の終結後にプロテスタントに改宗したフス派の一部に属する兄弟団最後の聖職者です。1620年にボヘミアの貴族がピーラー・ホラの戦いで敗れ、ボヘミア国民はカトリックへの改宗を迫られ、プロテスタントの人々は移住を余儀なくされました。ハプスブルグ家の支配下に入ったチェコでは、コメンスキーもボヘミアを追われ、諸国遍歴の末にアムステルダムで亡くなります。1670年の事です。

・ミュシャは、アムステルダム近くのナールデンの水辺を舞台に、愛する祖国の方を眺めながら、力なく座るコメンスキーと彼の死を悟った人々が悲しむ場面を描きました。

17≪聖アトス山≫ 1926年   描かれた時代:- 舞台:アトス山(ギリシャ)

・聖母マリアと幼子キリストの描かれたドームのある聖堂に人々が集まって礼拝しています。礼拝画の前には天使たちが浮遊してまばゆい光を放っています。

・エーゲ海にのぞむ北ギリシャのアトス半島は、現在も多くの修道院が立つギリシャ正教最大の聖地です。10~15世紀の間は南スラヴ人の重要な文化的・宗教的拠点でした。

・ミュシャは1924年にこの地を訪れ、伝統的な儀礼と神秘的な雰囲気に感銘を受けたそうです。本作の副題は「正教会のバチカン、最古のスラヴの遺産を収めた箱」としています。

・場面は、聖堂内で巡礼者たちが聖職者が手にする聖遺物に口づけしているところです。巡礼者は右側手前から円を描くように奥へ進み、光線に沿うように頭を垂れています。

・光輪を付けた天使たちは実際にアトス山にある4つの修道院の名前を掲げ、奥の二人は「慈愛」と「信仰」と言う言葉を掲げています。

18≪スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い 1926年(未完成)

                               描かれた時代:19世紀から20世紀初頭 舞台:-

・一段高くなった舞台のようなところで人々が円陣を組んで力強く手を上げています。その中央には大きく描かれた人物が木に座っています。

・中央にいる女性は、スラヴの女神スラヴィアで菩提樹に座っています。その下の若者たちはスラヴィアを囲み、彼らに向かって誓うように手を伸ばしているのは政治家たちです。

・1894年にチェコで結成されたスラヴ文化の再興を求める民族主義団体「オムラジナ」の集会の様子を描いています。

・画面上部の両隅が塗り残されていて、顔も判明しない人物がいるなど、未完とも考えられています。

手前のハープを放出る少女はミュシャの娘ヤロスラヴァ、右前景の肌かの少年は息子イジーがモデルと言われています。本作はミュシャ生前には公開されませんでした。

19≪ロシアの農奴制廃止≫ 1914年

                        描かれた時代:1861年 舞台:モスクワ(ロシア帝国/現ロシア)

・画面の3分の2を占める空間に聖堂が描かれています。霞がかかったようにかすんだ聖堂とは対照的に雪の上に立つ人々はくっきりと描かれています。寒く厳しい気候の中で、人々はなぜ集まっているのでしょう。

・ここはモスクワの赤の広場で、1861年に農奴の解放が宣言された瞬間が描かれています。でも人々の表情は暗く不安そうです。背後の建物はワシリー大聖堂で点描で描かれていて、その為靄がかかっているように見えます。その大きさは集まった人々にのしかかる権力の象徴でしょうか。かすんでいることで、彼らの不安を表しているとも考えられます。

・画面右奥の演壇には、布告を終えて引き上げようとする人が描かれていて、今まさに解放が宣言されたことを表しています。でも人々はそれが何を意味するのか理解できていないようです。ミュシャは1913年に取材のためロシアを訪問します。祝典を描くつもりだったミュシャは、そこで変わらず悲惨な生活を送る庶民を見て主題を変更したそうです。

・この作品は19世紀を舞台にしていますが、≪スラヴ叙事詩≫制作において早い段階の4~5枚目に制作されています。スポンサーであったアメリカ人実業家チャールズ・R・クレインはロシア愛好家で、本作は彼の意向が反映されているのでしょう。

20≪スラヴ民族の賛歌≫1926年

                                     描かれた時代:1918年 舞台:-

・画面中央で両手を広げる巨大な青年が描かれていて、その背後にはキリストの姿が見えます。画面全体は、青の部分、赤い部分、黒の部分、そして明るい黄色の部分といった色で場面が分けられています。

・本作は≪スラヴ叙事詩≫の全作品を総括するかのように、スラヴ人の歴史が凝縮されています。ミュシャは青、赤、黒、黄で歴史を4つに分類しました。青の部分は古代スラヴの時代で、右下では≪ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭≫で火を囲み踊っていた人々がいます。右上にはスヴァントヴィート神が影のように描かれています。

・画面上部で帯状に広がる赤い部分は中世で、スラヴの英雄たちが一堂に並んでいます。はっきりと識別することは無菅しいですが、そこにはヤン・フス、ヤン・ジシュカも描かれているでしょう。

・黒い部分は、スラヴ人が抑圧された時代です。外敵との争いに加えスラヴ人自身が引き起こした№≪ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー≫のような悲しい史実も含まれるでしょう。

・画面中央に広がる黄色い部分は、1918年の支配からの解放が表されています。右側には第一次世界大戦で勝利した連合国の旗がひらめいて、画面左下には兵士たちが並んでいます。中央にはスラヴの民俗衣装を着た人たち、そこには名もない一般の人々が描かれています。

・左下で両手を広げこの場面を讃えているのは、私たち自身かもしれません。

≪スラヴ叙事詩「スラヴ民族の賛歌」≫1926年 プラハ市立美術館 © Praque City Gallery

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鑑賞ポイント

<描かれた名もない人々>

≪スラヴ叙事詩≫は歴史的な出来事を描いていますが、画面の主役は歴史上の有名な人物ではなく、一般の人々が多いのです。それぞれの時代に翻弄されながら必死に生き、歴史を変え残してきたのは名もなき人々であることをミュシャは私たちに伝えているのでしょう。

<色の力>

・絵画の中の白い衣、白い星、白い紙、白いテキスタイルなど、「白」は純粋や無垢などを象徴しています。また、「青」は描かれている場面と異なる時空を、「赤」は強い存在として懺悔を拒む女性や高慢な聖職者、あるいは戦闘場面に使われています。これらの色の配置や構成を観ることで、ミュシャの狙いや色に託した言葉を考えてみましょう。

<仲介者:ナビゲーター>

・多くの作品の中に、こちらをじっと見つめる人が描かれています。彼らは、私たちに現状を説明し、疑問を投げかけ、感想を求めているようです。また、画面の中で背を向け、私たちを同じ方向に視線を投げる人もいます。彼らは作品の世界と私たちの世界を繋ぐ存在「仲介者」です。彼らを発見し対話することで、ミュシャの伝えたかった時代背景や民族の苦難を知ることが出来るかもしれません。

 


「DAVID BOWIE is」展
「DAVID BOWIE is」展 終了しました。

会期:2017年1月08(日)~4月9日(日)
場所:寺田倉庫G1ビル(天王洲)

デビッド・ボウイ(1947‐2016)のキャリアを網羅する大回顧展が都内で開催中です。

衣装、絵画、写真、映像など、300を超える貴重な展示物がところ狭しと並び、
ボウイが何者であったのかを丁寧に理解、そして体験させてくれます。

2000年にNMEというイギリスの週刊音楽雑誌の集計で
「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選出されるなど、
2016年1月10日肝癌により69歳で亡くなるまでの約50年間、
音楽家、そしてコンセプトアーティストとして活動し続けました。

作詞作曲をし人前で歌うという、一般的なミュージシャンの活動に
彼は演技という要素を取り入れることで一線を画しました。

自分ではない人間になるため、衣装、ヘアスタイル、メイクなどの手段も
楽曲と同様かそれ以上に重要な要素となり、
結果としてボウイは総合芸術家になったのです。

会場内で最も私達の目を楽しませてくれるのは、ボウイが纏った
衣装の数々でしょう。
1970年代、彼の活動に大きく貢献した、日本人服飾デザイナーの山本寛斎の作品はもちろんのこと、
アレキサンダー・マックイーン、ジョルジオ・アルマーニなど錚々たるデザイナー達の衣装を目の前で鑑賞できます。
別人格を宿すために作られたそれらは、異形のオーラを放つと共に、確固たるコンセプトを見える形で私達に教えてくれます。
会場を後にする頃には、
衣装とは視覚美術であり、そしてアートであることを確信することでしょう。

また、ボウイは親日家としても有名でした。
日本文化、特に歌舞伎からの影響を公言し、人間国宝である坂東玉三郎に化粧法を師事した他、
パフォーマンスに早替わりを取り入れるなど、熱心にカルチャーミックスを行ったのです。


ボウイが出演した1983年公開、大島渚監督作「戦場のメリークリスマス」についての特設コーナーも日本限定で設置されており、
共演した坂本龍一と北野武のインタビューを観ることができます。

会場入り口にてヘッドフォンが手渡され、
そこから、自分がいるエリアの作品解説やそれにまつわる楽曲が自動で再生されます。
見て、観て、聞いて、聴いて、ボウイの頭の中を旅するという特別な瞬間が味わえるでしょう。


社会全般に若者文化が芽生えた1960年代の代表であるビートルズが解散した年の1970年、新しい時代が始まりました。1970年代のアート・シーンは、音楽やファッションあるいは演劇といったジャンルを超えたカルチャーが登場し、ボウイはその代表として当時の若者たちを熱狂させました。


あなたがボウイのファンなら絶対に行くべき展示会です。
そうでなくとも、彼がいかに偉大なアーティストであったかを知る最良、そして最後の機会となるであろう回顧展、逃す手はありません!!


2016年

 



ゴッホとゴーギャン展 終了しました。

会期:2016年10月08日(土)~12月18日(日)
場所:東京都美術館

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853‐1890)とポール・ゴーギャン(1848‐1903)の二人の画家の交流に焦点を当てた展覧会が開催されます。

二人は、ポスト印象派の画家として美術史の上で位置づけられています。ファン・ゴッホやゴーギャンの前の世代である印象派の画家たちは、それまでのルールに縛られることなく、移ろう光や同時代の人々を生き生きと描きました。その次の世代の絵画として二人は印象派を越え、個性的な作風で制作しました。

二人の南仏アルルのアトリエをめぐる物語はあまりに有名ですが、その前後はどうだったのかはあまり話題にされないのではないでしょうか。本展は、二人が出合う前からはじまり、その後別々に送った人生を時の流れをたどりながら作品を鑑賞します。時間軸に沿って、改めて二人の関係を知っていきましょう。

第1章 近代絵画のパイオニア、誕生

ゴーギャンは、パリの証券仲買人として裕福な生活を送りながらも絵画に興味を持つ日曜画家でした。裕福な銀行家であるギュスターヴ・アローザは、未亡人のゴーギャンの母が亡くなった後、彼の後見人でしたが、ゴーギャンは、アローザの家などで印象派の画家たちと会い、また彼らの作品を購入することも始めました。

ファン・ゴッホはゴーギャンの5歳年下です。父が牧師だったのが影響したのでしょう、若い時彼は聖書を熱中して読んだそうです。母親にすすめられ、10代のころからスケッチや水彩画を描いていました。16歳でパリの有名な画商グーピル商会ハーグ支店に就職、1874年にロンドン支店に転勤になりますが、失恋に打ちのめされ気力を失ったゴッホは解雇されてしまいます。この年は、ゴーギャンがカミーユ・ピサロに出会い、絵画の指導を受けた年です。

ゴーギャンは1879年から印象派展に参加、1883年に株式仲買人を辞めて、画家に専念することを決めます。前年の株式市場の暴落がきっかけです。彼は、妻と5人の子供を画業で養えると考えていました。

ファン・ゴッホは同じころ、ロンドンで寄宿学校の住込み助手の仕事を辞めてしまい、南ベルギーの炭坑の町ボリナージュで、ロンドンの貧民街よりもひどい生活の人たちを知ります。1880年、27歳の頃には画家になることを決心し、ほぼ独学でデッサンを始めバルビゾン派の作品などを手本にしました。ゴーギャンが仲買人を辞めた同じ1883年、オランダの両親の元へ戻り、アトリエを得て本格的に油彩画に取り組みます。この時の代表作が≪古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)≫です。

作品1.作品には廃墟となった教会の塔とニューネンの農民が眠る墓地が描かれています。ファン・ゴッホ家が住む牧師館の近くにあった現実の風景です。10点程繰り返し制作し、最後に描いたのがこの作品。父親を亡くして1ヶ月程立った時の作品です。

フィンセント・ファン・ゴッホ ≪古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)≫ 1885年 

ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)© Van Gogh Museum,Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

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第2章 新しい絵画、新たな刺激と仲間との出会い

1886年、ファン・ゴッホはパリに行き、ゴーギャンはパリを去りました。

ファン・ゴッホは、前年に父が死にオランダを離れ、アントワープのアカデミーに入りましたが最初の学期で落第、パリへ旅立ちます。パリでは、印象派の輝く色彩や新印象派の点描技法など、幅広い様式と技法を吸収して、表現を急速に変化させました。

ゴーギャンは、画業で家族を養うことが出来ず、妻と4人の子供たちは妻の故国デンマークのコペンハーゲンに移り、少しの間ゴーギャンと一緒にパリで暮らした次男も後に、妻の故郷に移ります。ゴーギャンは最後の印象派展となる第8回展に出品し、ブルターニュのポン=タヴェンに移りました。これは安い生活費を求めたこともありますが、パリにはない「野性的」「原始的」なテーマを求めての事でもありました。

1887年、ゴーギャンとファン・ゴッホは出会います。ゴーギャンはポン=タヴェンからパナマへ行き、パナマ運河建設現場で働き、その後フランス領西インド諸島のマルティニック島へ移り、病気と貧困に打ちのめされました。

第3章 ポン=タヴェンのゴーギャン、

アルルのファン・ゴッホ。そして共同生活へ。

ゴーギャンは、パリとブルターニュを行ったり来たりしていました。1888年、ブルターニュのポン=タヴェンで20歳そこそこのエミール・ベルナール(1868‐1941)に出合い、彼の「平面的な色面」と「太く黒い輪郭線」に刺激を受け有名な≪説教の後の幻影≫を描き、新しい段階に踏み出しました。また同じ年、やはりポン=タヴェンで偶然出会ったポール・セリュジェ(1863‐1927)を指導し、そのことで画塾アカデミー・ジュリアンの若者たちのグループナビ派が誕生します。ナビ派とはヘブライ語で<預言者>を意味しています。若い彼らはゴーギャンという「神」の啓示を世に広め、新しい芸術を作り出す預言者になろうとしました。

この年の2月末ファン・ゴッホはパリから南仏アルルに移り住みました。南仏の強い光を受け、鮮やかな色彩と激しい筆触を手に入れて作品を描きました。10月にはゴーギャンが合流、二人は共同生活を始めます。

二人はイーゼルを並べ一緒に制作することで、お互いに影響を与え合いました。ファン・ゴッホは、記憶や想像から作品を制作することを、ゴーギャンは、広く平らな色面を用いて、現実とは異なる形態や色彩で、想像に基づいて描くことを強めるようになりました。

けれども、二人の生活はたった2ヶ月で破綻します。12月23日、ファン・ゴッホは最初の精神障害による発作に襲われて、左耳の一部を切断してしまいます。翌日、ファン・ゴッホの弟テオがアルルにやって来て、入院しているファン・ゴッホを見舞います。テオはその翌日、ゴーギャンを連れてパリに戻ってしまいます。

作品2.ファン・ゴッホは、小麦の栽培に魅了されていました。種まきから刈り入れと、季節によって変わる作業の段階を、一つの画面に描きこんでいます。美しい自然の風景は、農民にとっての働く場所であり、ファン・ゴッホにとってこの田園風景は、人間の生命と人生を象徴するものだったのでしょう。小麦の実りや屋根の黄色からオレンジにかけての輝く色と、対比して配される空や尾根、荷車の青との調和が美しい作品です。

フィンセント・ファン・ゴッホ ≪収穫≫ ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

© Van Gogh Museum,Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

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作品3.ゴ―ギャンのアルル滞在中の代表作でジュートに描かれています。この作品は現実の収穫の情景と記憶による場面との二つの部分で構成されています。収穫されたブドウとブルターニュの女性の場面を背景に、悲嘆にくれる女性は、かつてゴーギャンが目にしたペルーのミイラのポーズをしています。ゴーギャンはこのように、目の前にある現実の風景を描くのではなく、記憶や想像に基づいた制作をしました。このことは、ファン・ゴッホに大きな影響を与えます。

ポール・ゴーギャン≪葡萄の収穫、人間の悲惨≫ オードロップゴー美術館

© Ordrupgaard.Copenhargen  photo:Anders Sune Berg

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第4章 共同生活後のファン・ゴッホとゴーギャン

ファン・ゴッホは、その後も発作に苦しみ、アルルから約20キロ離れたサン=レミの療養院に入院します。ゴーギャンは、アルルからパリに戻った後、再びブルターニュへ赴きます。共同生活は破綻してしまいますが、友人で画家のエミール・ベルナールを交え3人で手紙で交流を続けました。これは、ゴッホが亡くなる1890年まで続きました。1890年7月29日未明、ファン・ゴッホは37歳と4ヶ月の短い人生を終えます。800点余りの作品を残しましたが、生前売れたのは1枚だけです。

ゴ―ギャンとゴッホは、相互に影響を与えつつも、異なる表現に向かいました。第4章では、二人の表現の違いをみましょう。想像から制作することを試みながらも現実の世界に根ざした主題のファン・ゴッホと、神秘的で幻想的な描き方で、自己の内面を表現する象徴主義へ進んだゴーギャンの作品との違いを感じてください。

第5章 タヒチのゴーギャン

パリとブルターニュを往復しながら制作をつづけたゴーギャンでしたが、依然として貧しい生活でした。彼は1891年、マルセイユから出発しタヒチへと向かいました。幼年時代にペルーで過ごした経験が原体験として記憶に残る古代的なものを求めたのかもしれません。この年、サロン・デ・アンデパンダンでファン・ゴッホの回顧展が開かれました。死後約10年、フランスや母国オランダでは、すでにかなりの名声を得るようになっていましたが、この回顧展を皮切りに彼に関する評論や展覧会が続きます。

ゴーギャンは一度、タヒチで制作した作品をフランスへもち帰り、パリで展覧会を開きましたが、1895年、再びタヒチへ向かい、二度とフランスには戻りませんでした。

1903年、ゴーギャンは心臓発作で亡くなります。

本展での注目作品は、ファン・ゴッホが描いたゴーギャンとゴーギャンが描いたファン・ゴッホです。とはいっても、二人が描いた肖像画は、彼らを象徴するモノで表されています。それは、実際の人物を描くよりも、その人の存在を感じさせ、その人自身を表しているようです。

作品4.1888年アルルでの共同生活が破たんする前に、ファン・ゴッホはゴーギャンが使っていた椅子を描きました。作品はディケンズの小説『空の椅子』から着想されています。椅子には二冊の本が置かれていて、ゴーギャンが創作の源とした「想像」を表していると考えられています。蝋燭とガス灯は、夕方か夜の情景であることを示していて、この時間は「詩」と結びついています。ファン・ゴッホはゴーギャンを詩人とみなしていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ ≪ゴーギャンの椅子≫ ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

© Van Gogh Museum,Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

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作品5.ゴーギャンはファン・ゴッホの死から11年後に、タヒチでひまわりの花束を描きました。ゴーギャンはひまわりの種をヨーロッパからタヒチに取り寄せて、作品を描いたそうです。ファン・ゴッホが数多く描いたひまわりの花は、ゴーギャンにとってファン・ゴッホ自身だったのでしょう。

ポール・ゴーギャン≪肘掛け椅子のひまわり≫ E.G.ピュールレ・コレクション財団

© Foundation E.G.Bührle Collection,Zurich

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ほぼ独学で絵画を学んだ二人、病気と貧困に打ちのめされながら、絵画のテーマを求め描きつづけた二人、描くことで生きて、そしてもしかしたら描くことで死を早めてしまったのかもしれない二人。

ゴーギャンとファン・ゴッホの作品を、二人の人生をたどりながらじっくり鑑賞したい展覧会です。

 



モードとインテリアの20世紀展 終了しました。

会期:2016年9月17日(土)~11月23日(水・祝)
場所:パナソニック汐留ミュージアム

ファッションの歴史は先史時代から語られ、中世を経て16世紀ルネサンス、17世紀バロック、18世紀ロココと続き、19世紀まで豪華で豊かに、そして緩やかに変化してきました。本展は、その後の20世紀のモードです。20世紀は、めまぐるしくファッションが変化しました。先進工業国において、モードは王侯貴族や一部の裕福な人々のものでなく、大衆現象となり,そして前世紀には想像もつかないほどのスピードで変化したのです。

モードとは何でしょう。モード(mode)はフランス語で、14世紀初頭のラテン語modus(尺度:方法)が語源とされています。model(模型、模範)も同義語です。フランス語には男性名詞と女性名詞がありますが、モードという言葉には二つの性があります。男性形のモード(le mode)は方式や方法、様式の意味、女性形のモード(la mode)はここで話題になる流行を意味します。

私たちは衣服などの流行を語るときにファッションという言葉も使います。ファッションとは、衣服などの形や色やその変化、そしてそれが発明され飽きられていくことを表し、モードは人間が衣服を着る周辺の問題を含めた広い現象を表すと考えてください。『20世紀モード史』の著者デュ・ロゼルは「モードの歴史とは衣服の歴史ではない。衣服と衣服を着る人の関係の歴史である」と記しています。この展覧会は衣服だけではなく、同時代のインテリアも展示しています。そのことで、衣服の背景にあるもの、その時代の生活環境や生活意識を知り、人々が「どう生きたのか」を感じることが出来る仕掛けとなっています。

第1章 1900-1919年

20世紀初頭のパリ・オートクチュールでは、世界からパリ・ファッションを求めてやって来る人たちのために、最新モードを制作していました。前世紀から活躍していたデザイナーたちは、コルセットで身体を人工的にS字型シルエットにし、華麗で豪華な作品を作っていました。女性はこれまでのどの時代よりもコルセットに拘束されていたのです。

けれども一方で、女性たちはプライベートな室内でティー・ガウンというゆったりとしたドレスを着て、次第にコルセットから身体を解放していきました。19世紀後半のジャポニスムの流行によるキモノは、室内着として着用され始め、欧米に定着します。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ロンドンやパリで開催された万博により日本文化が紹介され、そのことがジャポニスムという日本趣味をヨーロッパに誕生させました。

ポールポワレ(1879-1944)は、身体を覆うような着物のイメージをデザインに取り入れました。1903年にキモノ風コートを、翌年には袖の大きな直線立ちのコートを制作しました。また、古代ギリシャのドレスを研究し、1906年にはコルセットを使わないハイウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表しました。S字カーブのシルエットを形作る為のコルセットから女性を解放し、それまでのウエストで着る衣服から肩で支える衣服を創り、新しいシルエットを登場させたのです。

ポール・ポワレ ≪イブニング・ドレス≫ 1913年 島根県立石見美術館蔵

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ヴェネツィアで活躍していたマリアノ・フォルチュニィ(1871-1949)も、新しい衣服を模索していました。古代ギリシャ風のプリーツ・ドレスデルフォスは、プリーツが美しさ・豪華さと同時に機能性を持っている事でも注目されました。本展では、このデルフォスが展示されます。今では、美しいプリーツ加工のテキスタイルをフォルチュニィと呼ぶこともあるほど、彼の革新的な発想は現代に継続され、多くのデザイナーに影響を与えています。

. マリアノ・フォルチュニイ≪コート≫ および ≪プリーツ・ドレス「デルフォス」≫ 

 コート1912年以降 ドレス1910年代 島根県立石見美術館蔵 

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2章 1920-1939年

1914年に第一次世界大戦が勃発し1919年に終結します。その後1929年には世界恐慌が起きました。この間、中産階級が台頭し、大量生産が本格化するという社会変動が起きました。女性は着飾る衣服から、実生活の中で機能する衣服を求めるようになります。戦争中に男性に代わり社会で働くようになった女性たちは、長いスカートをはかなくなり、過剰な装飾を取り外し、物資の不足もあってデザインはシンプルになっていきました。それまでの男性服が持っていた特徴を継承することになったのです。

戦争終結後も女性は社会進出し、自信を持ち、自立が進みました。戦後の自由で闊達な女性像は、1922年のヴィクトール・マルグリットの小説にちなみギャルソンヌ(フランス語、ギャルソンの女性形:少年のような娘の意)と呼ばれました。彼女たちは、短い髪、深くかぶった帽子クロシェ、ローウェストで膝丈の動きやすいドレスという姿でした。

ジョルジュ・バルビエ≪煙:ベールのイブニング・ドレス≫

『ガゼット・デュ・ボン・トン』 1921年No.1 Pl.8. 島根県立石見美術館蔵 

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この流行を牽引したのは、ココ・シャネルやマドレーヌ・ヴィオネ(1876-1975)でした。ヴィオネはシャネルのようなメディア受けのする言動や行動もせず、シャネルスーツのような代表的で永続的な形式をアピールしたわけではないので、1939年に店を閉めた以降はしばらく忘れられていました。1973年にニューヨークで最初のヴィオネ回顧展が開催され、現代モードの先駆者として讃えられるようになりました。

ヴィオネの何が革新的で先進的だったのでしょう。当たり前のことですが、衣服は平面の布を裁断して縫い合わせ、複雑な立体を描く身体に着用させるものです。三次元の人体をいかに二次元の布地で覆うのか、あるいは三次元の人体をいかに二次元に解体するのかは、衣服を創る上で大変な課題です。しかも人は動くので、その動きにも沿わなければなりません。

彼女はバイアスの女王と呼ばれています。布地の織方向(経糸あるいは横糸の方向)に直角に裁断するのでなく、斜めに裁断することで、布地にドレープ性と弾力性を持たせました。現代では、ポリウレタンなどで素材にストレッチ性を持たせますが、弾性繊維の無い時代に、ヴィオネはサテン(繻子)などのしなやかな素材を、バイアスにカットすることで、身体にしなやかに沿い、動きについてくる衣服を発明したのです。またこのことで、女性が衣服に身体を合わせるのではなく、衣服が身体にあってくれるという、自立した女性には本当にうれしいドレスとなりました。

. マドレーヌ・ヴィオネ ≪イブニング・ドレス、ストール≫ 

1938年 島根県立石見美術館蔵

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第3章 1940-1959年

1939年、第二次世界大戦が勃発します。1944年まで5年間、パリはドイツに占領され、パリ・オートクチュールは休業や海外移転するメゾンが続出しました。パリに残ったメゾンは、細々とコレクションの発表を続けていました。ファッションを楽しむということより、生きる事が優先されてしまう時代を経て、新しいファッションが誕生します。

1944年のパリ解放後、早速オート・クチュールのコレクションが再開され、1945年には材料不足の中、70㎝ほどに人形にオート・クチュールのデザイナーたちの最新作を着せ展示する展覧会「テアトル・ド・ラ・モード」がパリで開催され、世界各地を巡回しました。

そして、モード史の中で大変大きな出来事が起きます。1947年2月のパリコレクションで、クリスチャン・ディオール(1905-1957)ニュールックを発表します。材料がなく倹約を強いられてきた時代が終わったことを高らかに告げる数十メートルの布をつかった長い丈のスカート、平和になった世の中を優雅に歩くためのハイヒールの靴、女性らしい細いウエスト、なだらかなカーブを描く肩と胸といった、華やかなデザインを発表しました。

展示されているのは、そのディオールが1954年に発表した作品です。再び戻ってきた女性らしいシルエットですが、それまでの締め付けられる一方だった身体より、戦争を乗り越えた女性の美しい強さが伝わって来るようです。

クリスチャン・ディオール ≪ボール・ガウン≫ 

1954年 島根県立石見美術館蔵

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第4章 1960年代

第二次世界大戦後、パリのオート・クチュールは才能豊かなデザイナーを輩出し、世界中の女性がパリモードに憧れたといっても過言ではありません。けれども60年代にはいると、新しい人々がファッションをリードします。それは、若い世代の人々です。60年代は大衆消費社会となり、映画や音楽が若い世代に影響を与えるようになりました。若者は大人になる前の半人前で社会において寡黙な存在から、ヴェトナム反戦運動、パリの5月革命(1968)など、はっきりとした意志を表明するようになるのです。

モードにおいても、若者の動向は影響を与え、主役となっていきます。それまでパリが中心であったファッションに、ロンドンの風が吹き始めます。ロンドンのデザイナー、マリー・クワント(1934-)がミニスカートで脚光を浴びたのは、良い例でしょう。その後、パリのクレージュによって、20世紀の衣服として広く知られるようになります。

また、戦争や宇宙開発などの影響もあり、化学繊維の発明・開発が進みました。1935年に人類初の人工繊維であるナイロンが発明され、1940年にストッキングになりますが、60年代にミニスカートが流行するとともにパンティストッキングが登場します。1946年、イギリスでポリエステルが市販され、天然繊維に代わる機能繊維として今も私たちの生活に欠かせないものとなっています。

展覧会では、クレージュが1960年後半に制作したミニのワンピースが展示されます。それまでになかった科学的な技術で作られた素材は、発色・光沢そしてシルエットと、それまでにない新しいファッション、そしてモードが展開する予兆を表しています。

ファッションの展覧会は、洋服を作品として鑑賞するので「洋服がアートなの?」と感じる人もいるかもしれません。確かに、衣服は人が着用して初めてその美しさを輝かせるものかもしれません。けれども、衣服の変化は、その時代の社会をしっかり反映しています。その時代の政治や経済、戦争と平和などの環境が、人々の志向や趣味に影響を与えてきました。そしてその中で生きた人たちの「生き方」がファッションを、そしてそれを含めたモードを作って来たとしたら、衣服は時代を見てきた証人、貴重な資料なのです。そして、その歴史は現在も続いています。

ここではインテリアについて触れられませんでしたが、同時に展示されるインテリアや雑貨にもその時代を語るものが必ずあるはずです。どうぞ楽しんで探してみてください。

 



ダリ展 終了しました。

会期:2016年9月14日(水)~12月12日(月)
場所:国立新美術館 企画展示室1E(東京六本木)

サルバドール・ダリは、最も有名な20世紀の芸術家の一人で、シュルレアリスムを代表する画家です。スペインで生まれ、1929年に彗星のごとくパリの美術界に登場、その後アメリカに進出して大きな成功と人気を獲得します。

シュルレアリスムとは、1924年に詩人アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言が刊行されたことで始まった芸術運動です。シュル(sur)は、フランス語で「…の上に」という意味ですが、「過剰」や「強度」を意味する場合もあります。シュルを「超」と訳して「超現実主義」と日本語では表しますが、現実(réalité)を超えてしまった別世界を描くのではなく、現実の中やすぐそばにある強調された現実私たちに見せてくれる芸術がシュルレアリスムだと考えてみると、ダリの絵画の鑑賞がより深まります。人間や動物、建物、時計など、現実の世界にある良く知った物たちが、不思議な姿・形・大きさで描かれていて、現実とつながっている奇妙な世界が展開しています。

日本で過去最大の回顧展となる本展は、シュルレアリスムのグループに参加する前の10代から20代前半の作品や、アメリカからスペインへ戻った後の晩年の創作を含めた約250点が展示され、ダリの初期から晩年までの創作と軌跡を知ることが出来る貴重な機会となっています。

CHAPTER 1初期作品(1904-1922)

サルバドール・ダリは、1904年5月11日、スペイン・カタルーニャ地方の小都市フィゲラスで生まれました。父はフィゲラスの公証人で町の有力者です。ダリには、彼が生まれる9か月前に1歳10か月で亡くなった兄がいました。兄の名前はサルバドール。ダリは生涯、自分は兄の身代わりではないかという意識にとらわれていたそうです。

ダリは、早くから絵の才能を発揮、12歳でフィゲラスの市立劇場(のちのダリ劇場美術館)で開かれた展覧会に出品、そのころから地方では知られる存在でした。17歳の時、母が癌で亡くなります。その頃描かれた≪ラファエロ風の首をした自画像≫(1921頃)が出展されます。ラファエロ(1483-1520)はイタリア・ルネサンスの画家で、ダリが最も敬愛した画家の一人です。そしてダリが青年期の夏によく過ごした、カダケスの風景が描かれています。父の別荘のあったこの地を、ダリはどこよりも愛していました。

この頃ダリは、ルノワールなどの印象派風の表現や、当時パリで大回顧展が開催されたセザンヌ(1839-1906)の画風を取り入れるなどの、ポスト印象派風の絵画を描いています。シュルレアリスムの中心的画家になる前の若い頃の作品に出会えるのも、本展覧会の魅力です。

CHAPTER 2モダニズムの探求(1922-1929)

母が亡くなった翌年18歳のとき、マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに入学しますが、「自由に描けばそれで良い」といった前衛的な考えに失望したようで、反抗的な学生だったそうです。ダリは前衛を理解した上で、アカデミックな表現を学びたいと思っていました。

けれどもダリは、この学校の学生館で貴重な機会を得ます。それは、後に映画監督となるルイス・ブニュエルや詩人のガルシア・ロルカなど、スペインの二つの才能と出合ったのです。この「出会い」は、ダリ独自の芸術を発展させる礎となりました。

≪ルイス・ブニュエルの肖像≫(1924)はブニュエルの顔を実際に計り、それを忠実に再現するためマス目を引いたカンヴァスに描いた肖像画です。作品からは、何度も上映禁止の処分を受けながらも作品を発表し続け、「スキャンダル映画監督」と呼ばれたブニュエルの意志や精神力が伝わって来るようです。

CHAPTER 3シュルレアリスム時代(1929-1938)

ダリとブニュエルは、お互いが見た夢に発想を得て映画を競作しました。女性の眼球を剃刀で切るというショッキングなシーン(実際は牛の眼球を使用)で始まるこの実験的ショートフィルム『アンダルシアの犬』は、1929年4月から8か月間上映され、評判となり、アンドレ・ブルトン(1896-1966)を中心としたパリのシュル・レアリストのグループに迎えられます。

またこのグループでも、ダリは重要な「出会い」をします。当時ポール・エリュアール(1895年-1952年)の妻だったガラです。彼らを含むシュルレアリストの友人たちがカダケスの別荘に尋ねてきた年の夏、ダリとガラは恋に落ち、すぐに一緒に暮らし始めました。翌年には、カダケスのひなびた漁港ポルト・リガトの古家を購入、新居兼アトリエとしました。

ガラと出会い恋におちた年、1929年から30年(25歳~26歳)にかけて、ダリは時間の経過とともに物体が変化する「腐敗」に関心を抱いていました。≪子ども、女への壮大な記念碑≫には、人間の頭部や手、ナポレオン、モナリザなどいろいろなモチーフが、朽ちて溶け合ってできた巨大な塔が描かれています。映画『アンダルシアの犬』に登場した腐ったロバや、ダリがとても怖がっていたライオンもいます。

サルバドール・ダリ 《子ども、女への壮大な記念碑》 1929年

140.0×81.0cm、カンヴァスに油彩、コラージュ 国立ソフィア王妃芸術センター蔵  

Collection of the Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía, Madrid  

© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016. 

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ガラというミューズを得てからの30年代は、ダリの最盛期となりました。1931年(27歳)に、ニューヨークのグループ展に≪記憶の固執≫(出展されていません)を出品、このぐにゃりと溶けた時計で有名な作品でアメリカの美術界にも注目されるようになりました。

1935年(31歳)頃の作品≪奇妙なものたち≫にも柔らかい時計が描かれています。その他小枝の髪の女性、パンを頭に乗せた男性の胸像などが、ダリのシュルレアリスム時代の特徴であるモティーフが夜の風景の中に登場しています。

女性の下半身・赤い建物の毛で塞がれた開口部・白い椅子の肘掛・女性の右腕を比べてみてください。共通した表現があると思います。ダリは、一見すると関連の無い物をカンヴァスに並べているようですが、統一感が感じられます。これは、同じ形態を違ったテーマに変化させて繰り返し登場させる「形態学的なこだま」と呼ばれるダリが探求したテーマです。他の作品にも、この探究が表現されていますので、注意深く鑑賞してみてください。

サルバドール・ダリ 《奇妙なものたち》 1935年頃

40.5×50.0 cm、板に油彩、コラージュ、ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵  

Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres  

© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016. 

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CHAPTER 4ミューズとしてのガラ

ガラはダリより10歳年上でした。エリュアールと別れたガラは、ダリを母親のように包み込んでいました。それだけではなく、ガラはダリの才能の開花にたいへん影響を与えました。画材の研究を二人で行ったり、ガラがダリの作品を持ち出し、営業行脚をしたりしたそうです。ダリはガラを「一卵性双生児」と表現しました。それはガラが、ダリの作品のインスピレーション源であるとともに、プロデューサーでもあったからです。

1940年(36歳)の時、二人はニューヨークに移り、翌年には、ニューヨーク近代美術館で大回顧展を開催します。けれどもその頃、元々自由奔放であったガラは若い男性の心を移していきます。ダリは仕事に専念し、ガラはそのお金を若い男性に使う生活で、ガラはダリを仕事が仕上がるまでアトリエに閉じ込めたり、ダリにとって魅力的でもお金にならない仕事を断ったりと、仕事の面でもダリを苦しめたようです。

CHAPTER 5アメリカへの亡命(1939-1948)

1934年(30歳)、ダリとガラは正式に結婚し、その年の暮れに二人は初めてアメリカに行きます。この頃すでに、シュルレアリストたちとは距離を置くようになっていました。保守的なヨーロッパとは異なる自由なアメリカにダリは魅力を感じ、アメリカも彼を大きく評価していて、ダリの肖像は、1936年の『タイム』の表紙を飾りました。1939年のニューヨーク万博では、パビリオン『ヴィーナスの夢』も手がけました。

1940年(36歳)、ドイツ軍のパリ占領にともない二人はアメリカに亡命、それから8年間この地で生活をします。アメリカでは、映画や舞台美術、商業デザインなど幅広く活躍し、確固たる地位と財力を得ました。

CHAPTER 6ダリ的世界の拡張

ダリはアメリカ滞在中に、ヒッチコック、ディズニー、マルクス兄弟などにも協力しました。また、ファッションデザイナーのエルザ・スキャパレリと共同で数多くの作品を発表したり、宝飾の世界ではジュエリーを制作したりと、商業デザインの仕事も手掛けました。

舞台芸術では、1941年にメトロポリタン歌劇場で上演されたバレエ≪迷路≫で台本を書き、舞台装置と衣装デザインも出がけました。また、もともとパリで上演する予定でしたが戦争の為中止となっていた『狂えるトリスタン』『バッカナーレ』とタイトルを変え、1039年ニューヨークで初演となりました。

この『狂えるトリスタン』はレオニード・マシーンの振り付け、ココ・シャネル(1883年-1971)が衣装を担当することで準備を進めていたものでした。1938年の作品≪狂えるトリスタン≫は、ココ・シャネルの邸宅に滞在して習作に没頭した時、その舞台美術の構想の為に描かれた初期の習作の一つです。三つの異なった入口のある建物が描かれています。

サルバドール・ダリ 《狂えるトリスタン》 1938年

45.7×54.9 cm、板に油彩、サルバドール・ダリ美術館蔵  

Collection of the Salvador Dalí Museum, St. Petersburg, Florida Worldwide rights

© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016. In the USA

©Salvador Dalí Museum Inc. St. Petersburg, Florida, 2016. 

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CHAPTER 7原子力時代の芸術(1945-1950s)

アメリカ滞在中は、大戦に対する不安や家のに満ちた作品も多く残しています。また、1945年に日本の広島と長崎への原爆投下に、ダリは大きな衝撃を受けます。絵画の中で破滅に向かう世界へ警鐘を鳴らし続けました。

ダリの人生は戦争の中にありました。10歳の頃に第一次世界大戦が、13歳の頃にはロシア革命が勃発、32歳の頃には母国スペインで内乱が起き、そして1945年41歳の8月に、滞在していたアメリカが、広島と長崎に原爆を投下し、大戦は終結しました。

≪ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌≫は、1945年に描かれました。原爆投下の衝撃で、ダリは本作を制作しました。中央に左斜めに首を傾け倒れ込んでいるような人間の頭部に、原爆を落とす戦闘機が描きこまれています。その傍らには、アメリカを象徴する野球選手たちがいます。原爆がもたらした陰鬱な世界が広がっています。

サルバドール・ダリ 《ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌》 1945年

66.5×86.5cm、カンヴァスに油彩、国立ソフィア王妃芸術センター蔵  

Collection of the Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía, Madrid  

© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016. 

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第二次世界大戦後の1948年(44歳)に、ダリとガラはスペインに帰ります。1951年(47歳)『神秘主義者』を出版しました。原爆投下やビキニ島での水爆実験を背景にして、ダリは原子力をはじめとした科学技術と宗教、そして古典主義に回帰することを強調します。古典芸術と現代的なテーマを融合させ、そのなかに神秘的な力を見出そうとする新しいダリの表現がスタートします。

≪ポルト・リガトの聖母≫は、古典主義に立ち戻ったダリの作品で、ポルト・リガトの海を背景に神話の女神や聖母マリアを描いた、現代の礼拝画のような作品です。聖母とマリアの背景には天国に通じる四角い開口部があり、原子物理学の「分裂した粒子が浮遊して一定の距離を保つ」という理論が、浮遊するマリア像や四つに分解された聖堂に現れています。すべてのものが重く固定されず、互いに浮遊しながら孤立して表現されています。

サルバドール・ダリ 《ポルト・リガトの聖母》 1950年

275.3×209.8cm カンヴァスに油彩、福岡市美術館蔵  

© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016. *東京会場のみ展示 

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CHAPTER 8ポルト・リガトへの帰還―晩年の作品(1960-1980s)

アメリカから帰ったダリとガラは、カダケスの近くの小さな漁村ポルト・リガトに住んでいました。1960年以降、古典芸術に回帰したダリは、巨匠たちに触発された作品を描きました。また、≪テトゥアンの大会戦≫のような一連の大作絵画を次々と発表しました。この作品は、14歳の時に出会ったマリアノ・フォルトゥニー作≪テトゥアンの大会≫(1863-65)の存在があります。テトゥアンはモロッコ北部の地中海側に位置する町で、本作はモロッコ・スペイン戦争中の1860年、テトゥアンにおいて起こった戦いを描いています。

1974年(70歳)のとき、フィゲラスにダリ劇場美術館が開館、1982年(78歳)には、フロリダ州セントピーターズバーグに、クリーヴランドから移転したサルバドール・ダリ美術館が開館します。同年6月にガラは亡くなり、翌年ダリ79歳の時、遺作となる≪ツバメの尾≫が完成し、スペインで最初の大回顧展がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催されます。1989年84歳で死去、ダリ劇場美術館の地下聖堂に埋葬されました。


ガラ=サルバドール・ダリ財団(スペイン、フィゲラス)、サルバドール・ダリ美術館(アメリカ、セントピーターズバーグ)、国立ソフィア王妃芸術センター(マドリード)という世界の三つの主要なダリ・コレクションから選ばれた作品を中心に、国内所蔵の重要作品を加えて、約250点により構成された、日本では約10年ぶりの展覧会です。

ダリの探求した「シュルレアリスム」の世界を知る、また「シュルレアリスム」だけではないダリの作品を鑑賞できる本展で、ダリの新しい魅力と出会って下さい。

 



特別展「平安の秘仏ー滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」 終了しました。

会期:2016年9月13日(火)~12月11日(日)
場所:東京国立博物館(上野公園) 本館特別5室

櫟野寺(らくやじ)は、滋賀県甲賀市にある天台宗の由緒あるお寺です。延暦11年(792年)に最澄が延暦寺の建立に際し良材を求めてこの地を訪れ、櫟(いちい)の木に観音像を刻んだことが始まりとされています。平安仏がまとまって安置されている寺は少なく、その意味でも貴重です。

白洲正子が「かくれ里」と呼んだ櫟野の地は、櫟野寺を拠点とした数多くの天台寺院が建立され、豊かな仏教文化が花開いた土地です。本展出展の「十一面観音菩薩坐像」は、白洲正子も拝めなかった秘仏です。

櫟野寺の紅葉 撮影=藤原弘正

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本展は「平安の秘仏」と題されています。平安時代の美術は、長岡遷都から遣唐使廃止(894)を含めた10世紀前半の930年頃までを前期(784~930頃)、その後平氏が滅亡し鎌倉時代が始まるまでの後期(930頃~1185)に分けることができます(美術の時代区分には諸説あります)。本展覧会の仏像は、後期にあたる10世紀以降に制作されたものが中心で、遣唐使が廃止された後の日本的な文化和様が花開いた時代の作品です。

秘仏本尊の「十一面観音菩薩坐像」は重要文化財では日本最大で、像高は3.12m台座・光背も含めると5mを超えます。この大きさですが、頭と体が1本の木から彫り出されている一木造の仏様です。迫力あるその御姿からも、そのころには櫟野寺が甲賀における仏教美術の中心であったことがわかります。

十一面観音菩とは、四方八方をよく見て、多くの人々の願いを聞き入れてくれる観音菩薩の御姿を表しています。頭の一番高いところに如来の顔があり、菩薩面が三つ、憤怒面が三つ、牙をむいた狗牙面(くがめん)が三つ、口を開けて笑っている暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)が一つが通常です。今回の展覧会は、正面だけでなく横からもその御姿を観ることが出来ますので、よく観察してみましょう。

文化財 「十一面観音菩薩坐像」 平安時代・10世紀 滋賀・櫟野寺蔵

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如来とは仏像の中で最も高い暗いの仏像です。仏像には、如来、菩薩、明王、天という4段階がありますが、それぞれ異なった役割を持っています。如来は、敢然に悟りを開いている御姿で、衲衣(のうえ)と呼ばれる布を巻くだけの質素な姿で、パンチパーマのような螺髪(らほつ)、穏やかな表情が特徴的です。最初にお話しした「十一面観音菩薩坐像」が、ネックレスなどで着飾って、おしゃれをしているのは、悟りを目指して修行をしている御姿、悟りを開く前の釈迦をモデルにしているためです。

薬師如来は瑠璃という青い宝石が敷き詰められた東のはての美しい世界(東方浄瑠璃)に住む仏様です。釈迦のような実在の人物ではありません。左の手に小さな薬壺(やっこ)を持ち病気平癒をつかさどる仏様です。(ちなみに、西の世界に住んでいるのが阿弥陀如来です。)

本展の「薬師如来坐像」も左手に薬壺をもった仏様で、2.22mの大作です。その穏やかな表情は、京都の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を制作し、和様仏像を完成した仏師定朝の作風を模範とした定朝様に倣います。

重要文化財 「薬師如来坐像」 平安時代・12世紀 滋賀・櫟野寺蔵

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地蔵菩薩は十一面観音菩薩とおなじ菩薩様です。お釈迦様が入滅し、56億7千万年語に弥勒が現れるまでの間、私たちを救ってくださる仏様です。各地を歩きながらめぐり人々を救う姿で表されますので、錫杖(しゃくじょう)を持っています。

「お地蔵さん」と呼ばれ親しまれている存在で、六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)という死後の六つの世界をくまなく巡り、地獄に落ちた人までも救済することから、多くの庶民の信仰を集めたのでしょう。

本展の「地蔵菩薩坐像」は、像内の銘文から、文治3年(1187)に造られたことがわかりました。その頃は、仏師運慶らによって、写実的な鎌倉風仏像が造られるようになった頃ですが、櫟野寺周辺では、まだ平安風の仏像であったということも興味ある事柄です。

重要文化財 「地蔵菩薩坐像」 平安時代・文治3年(1187) 滋賀・櫟野寺蔵

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もともと菩薩は、悟りを開く前の修業中の釈迦の姿を指す言葉でした。けれども大乗仏教が広まり如来の数が増え、如来を目指す菩薩の種類も増えていきました。こうして誕生したのが、観音菩薩や弥勒菩薩です。中でも観音菩薩は、死後ではなく現世で利益をもたらす存在として信仰を集めています。

観音菩薩は、大勢の人を救うために、次々と姿を変える菩薩です。あらゆる方向を見るために十一面観音となり、多くの人に手を差し伸べるため千手観音にもなり、その他多くの観音菩薩があります。

櫟野寺では本尊の「十一面観音菩薩像」を始めとして10世紀から12世紀にかけて造られた観音菩薩が複数残され、観音菩薩への信仰の深さを知ることが出来ます。

重要文化財 「観音菩薩立像」 平安時代・10~11世紀 滋賀・櫟野寺蔵

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仏像の4つの種類である如来、菩薩、明王、天のうちの天は、古代インドで信仰されていた神々が、仏教の世界に取り入れられたものです。ヒンドゥー教などのインドの神々が仏教に帰依したとして、次々と天部に取り込まれました。多くの天の中で、梵天と帝釈天が上位に位置し仏教の守護神です。その下に東西南北を守る四天王の持国天・増長天・広目天・多聞天がいます。日本では、四天王の一尊として安置する場合は多聞天、独尊像として安置する場合は毘沙門天と呼びます。

その姿は、忿怒の表情で武装していることが多く、また天のなかには吉祥天のように女性の姿をしている天もいて、いろいろな天がいます。

本展の「毘沙門天立像」も、異教の神の雰囲気をもち、憤怒の相で武装し睨みをきかせています。平安時代の始めに坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊の追討を櫟寺で祈願し、それが叶いこの像を安置したと言われています。

重要文化財 「毘沙門天立像」 平安時代・10~11世紀 滋賀・櫟野寺蔵

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今回の展覧会は、櫟野寺の20体すべてが寺外で展示される初めての機会です。本尊の十一面観音菩薩坐像は、通常は大きく思い扉に閉ざされている秘仏です。また、普段は厨子に安置され正面だけを観る仏様も、横からじっくりとその造形を鑑賞することが出来ます。

遠く大陸からやって来た仏教を、日本的な解釈と表現で作り上げた和様仏を鑑賞するとともに、鈴鹿山脈に連なる油日岳の山麓に位置し、琵琶湖に注ぐ杣川が流れる櫟野の地で、人々を見守り救い続けた仏様に会いに行きましょう。

 



ポール・スミス展  HELLO, MY NAME IS PAUL SMITH 終了しました。

会期:2016年9月11日(日)~10月16日(日)
場所:松坂輪美術館(名古屋)

サー・ポール・スミスはイギリスのデザイナー。1946年にイギリスに生まれ、16歳でノッティンガムにある服飾倉庫で働き始めました。その後彼の興味は、建築やデザイン、ファッション、芸術へと広がります。1970年、イギリス・ノッティンガムのバイヤード・レーン6番地に「Paul Smith Vêtements Pour l'Homme」(ポール・スミスの紳士服)というショップをオープンさせます。3m×3mという狭いショップは窓もなく、ポールは他の仕事をしながら、週2日間だけ店を開いたそうです。本展では、この記念すべき第1号店が、当時のサイズのまま再現されます。

<Paul in his First Shop:ポール・スミス1号店>ⓒPaul Smith Ltd.

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パリにある、とあるホテルのベッドルームで、ポールは初めてのショーを開催します。といっても、シャツ6枚、上着2枚、スーツ2着をベットに広げただけの展示でした。最終日の終わりの時間にやっと訪れた一人の客から注文が入り、ポールのビジネスは始まりました。当時のベットルームも再現され、ここでエピソードが紹介されます。

ポール・スミスといえばカラフルなストライプを思い出す人も多いでしょう。このストライプ柄は、厚紙に色糸をゆっくりと巻き付け、少しずつ慎重に縞模様を作り出しているのです。そしてその色味は、服やアクセサリーなどに展開していきます。

ポールは、多くのジャンルとコラボレーションをしてきましたが、初期の代表例はローバー社(当時)のミニです。会場では、2015年秋冬に発表されたカラフルなストライプ柄で装飾された自動車が展示されます。

<Collaboration-Mini,2016:コラボレーション(ミニ、2016)>ⓒPaul Smith Ltd.

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ポールは創作に対するインスピレーションをどこから得るのでしょうか?彼は、画像やイメージ、言葉や数字などの様々なアイデアを記憶に残すため、カメラで撮影したりノートに書き留めたりするそうです。会場では、ポールの頭の中に浮かんでくる多くのイメージを映像のインスタレーションで表現したり、彼が10代から集めている絵画や写真約500点を壁面に展示したりと、ポールの頭の中に入り込んだような体験ができる展示となっています。

ポールのアパレル(洋服)には、伝統と現代性が共存しています。ベーシックなグレーのスーツの身頃やポケットのフラップの裏に明るい色が使われたり、ネクタイの裏地がプリントだったりと、ひねりのきいた冒険できるスーティングが魅力の一つです。7つのテーマに分けられた過去のコレクションから、2016年春夏のコレクションまで、ポールの洋服に込められた遊び感覚あふれるアイデアを観る事ができます。

ポールのオフィスは物で溢れているそうです。散らばっている本や書類、自転車やカメラ、キッチュなものは、その多くはポールが世界中を旅して集めたもので、このオフィスも会場で再現されます。部屋に置かれている物や場所など、細部まで完全再現されていて、クリエーションの現場に同席している気持ちになれるでしょう。

<Paul's Portrait 1:ポールのポートレート>ⓒLuke Hayes

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本展は,2013年11月にロンドンのデザイン・ミュージアムで開催された「HELLO,MY NAME IS PAUL SMITH」展が、京都をはじめとして、東京、名古屋と巡回する展覧会です。伝統的な職人技と最先端のデザインを用いたファッションや映像インスタレーションなど、2800点の膨大な作品の展覧会で、デザイナー、ポール・スミスの世界を満喫しましょう。(会場内では、来館者による全作品の写真撮影が許可されています。)

 



日伊国交樹立150周年特別展 アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」 終了しました。

会期:2016年7月13日(水)~10月10日(月・祝)
場所:国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)

ルネサンスといえばイタリアのフィレンツェを思い浮かべる人も多いと思います。「再生、復興」を意味するルネサンスは、15世紀初頭からイタリアに興った芸術運動で、最初にフィレンツェで始まりました。そして16世紀初頭にはローマで花開きました。

ヴェネツィアのルネサンスは、フィレンツェより少し遅れて始まります。芸術を保護したメディチ家のロレンツォ豪華王が1492年に没し、政治的に混乱したフィレンツェに代わって、ヴェネツィアが台頭し、16世紀前半にはヴェネツィア派が黄金時代を築きます。デッサンのフィレンツエ、色彩のヴェネツィアと比較され、どちらもルネサンス美術と呼ばれますが、その絵画表現は同じではないのです。

15~16世紀のヴェネツィアは、繁栄の絶頂にありました。フィレンツェに比較してローマから遠いため宗教的な規則に縛られにくく、古典・古代の理想主義を強く求めるよりも、自由に時代や世俗を映し出すことが出来ました。また、内陸にあったフィレンツェは木が多く乾燥しているので板絵やフレスコ画が中心でしたが、森林が少なく湿気の多い海洋都市のヴェネツィアでは、帆を転用したカンヴァスに油彩画を描くことが発達しました。

描き直しが出来ないフレスコ画を描くには卓越したデッサン力が必要です。フィレンツェの芸術家たちは、古代彫刻や人体をデッサンすることで腕を磨きました。一方、画面上で色を混ぜたりふき取ったりできる油彩画は、大胆な構図や筆使いが可能です。また、薄く伸ばせば深く柔らかな陰影による立体感が、こってりと厚塗りにすれば迫力のある筆使いでドラマティックな表現ができます。

ヴェネツィア派絵画の基礎を築いた一族にベッリーニ一族がいます。ヤコポ・ベッリーニは、名もなきブリキ職人の息子で、1400年頃にヴェネツィアに生まれました。1425年にはフィレンツェのジャンティーレ・ダ・ファブリアーノの工房に入り弟子として修業、その後ローマで古典古代の遺跡を熱心に研究しました。ヴェネツィアに帰った後、市の重要な画家となりましたが、その作品はほとんど残っていません。1470年頃に亡くなりました。

第1章 ルネサンスの黎明ー15世紀の画家たち

ヤコポには二人の息子と娘がいました。娘は、ヴェネツィア・ルネサンスの最初の大画家アンドレーア・マンテーニャと結婚します。長男のジャンティーレは父ヤコポが亡くなる数年前に一族の工房の後継者となりましたが、アカデミア美術館所蔵の≪サン・マルコ広場の聖十字架の行列≫(1497年)の他に彼の作品もまた、ほとんど見ることが出来ません。

次男のジョヴァンニ・ベッリーニ、ヴェネツィアにおけるルネサンス様式の絵画を開花させた人物です。数多くの祭壇画や肖像画を描き、その多くは火災などで失われてはいますが、たくさんの作品が現存し観ることが出来ます。本展覧会のチラシに採用された≪聖母子≫(赤い智天使の聖母)は、ビザンティン美術の固さが残るものの、優しい視線を交わしあう母子の姿に人間の温かみを感じます。背景に広がる風景の表現に、ベッリーニが自然描写に関心を寄せていたことがわかります。

ジョヴァンニは優しく親しみやすい人物で、多くの弟子がいました。その中の一人にジョルジョーネがいます。そして、ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノは、最初ベッリーニ兄弟の弟子となり、後にジョルジョーネの助手をつとめました。ヴェネツィア派の初期ルネサンスから盛期ルネサンスへの流れは、この3人の関係で語ることが出来ます。

第2章 黄金時代の幕開けーティツィアーノとその周辺

16世紀の初頭、二人の若い画家によってヴェネツィア絵画に革命がもたらされます。ジョルジョーネとティツィアーノです。ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、1488年頃アルプス山麓の小村に生まれました。16世紀の半ばには、ヴェネツィアの指導的画家の地位を確立していました。

彼の晩年を代表する作品の一つが、サン・サルヴァドール聖堂の右側廊の祭壇を飾る大作≪受胎告知≫です。受胎を告げる大天使ガブリエルが大きく描かれ、マリアは身を引きつつもベールをたくし上げてお告げに耳を傾けています。天は開け、まばゆい光と共に聖霊である鳩が舞い降りています。特別出展の本作は、横2m40㎝、高さ4m以上の大作。この展覧会の最大の見どころです。

ティツィアーノ・ヴェッチェッリオ≪受胎告知≫ 油彩/カンヴァス サン・サルヴァドール聖堂

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ティツィアーノに続きヴェネツィアで活躍したのは、劇的な明暗表現のヤコポ・ティントレットと、華麗な色彩と古典的な様式で貴族たちから高く評価されたパオロ・ヴェロネーゼです。

第3章 三人の巨匠たちーティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ

ティントレットはティントーレ(染物師)の息子で、本名はヤコポ・ロブスティ。ティツィアーノの弟子でしたが、ティントレットの才能に嫉妬したティツィアーノが彼を工房から追放したとも伝えられています。彼はティツィアーノより30年後の1518年にヴェネツィアで生まれました。豊かな官能性あふれる人間性を描いたティツィアーノと、幻想的でドラマティックな手法で宗教的主題を描いたティントレット。どちらも当時のヴェネツィアで好まれた画風です。

ティントレットは、ヴェネツイアにマニエリスムの要素をもたらした画家と言われています。マニエリスムとは、世紀ルネサンスの巨匠の手法を進化させようと、身体を引き延ばしたり誇張したポーズで描いたりする絵画です。ティントレットは円熟を増すにつれて、複雑なポーズをとる人物を自在に組み合わせた劇的な構図や、光と影の強烈な対比による表現を強めていきました。≪聖母被昇天≫では聖母マリアは身体をひねり、聖母を見上げる人々も体をのばしたりよじったりしながらひしめき合い、今にも動き出しそうな躍動感があふれています。

ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)≪聖母被昇天≫ 油彩/カンヴァス 240×136  アカデミア美術館

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16世紀半ばに画壇デヴューしたティントレットに少し遅れて活躍したのが、ヴェローナから移住してきたのが本名パオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼです。ヴェロネーゼはルガーノからヴェローナに移っていた石切り工の息子として1528年に生まれました。あまり有名ではない画家であった叔父に弟子入りし修行したのち、1555年の48歳の時ヴェネツィアに定住しました

ティツィアーノの次の世代、16世紀ヴェネツィア絵画の黄金時代を築いたのは、宗教心の厚く家庭を大切にしたティントレットと明るく軽やかな色彩を特徴としたヴェロネーゼの二人でした。第3章ではヴェロネーゼとその工房の作品もご覧いただけます。

4章 ルネサンスの終焉ー巨匠たちの後継者

1580年代の終わりから90年代の前半にかけて、ヴェネツィアにおける3人の巨匠が相次いで他界しました。晩年のティツィアーノやティントレットから影響を受けたパルマ・イル・ジョーヴァネや、ティントレットの息子のドメニコ・ティントレットらが、ヴェネツィア・ルネサンスの最後を飾りました。

フィレンツェで始まったルネサンス芸術は16世紀初頭でローマにおいて頂点を迎えますが、1519年レオナルド・ダ・ヴィンチが、1520年にラファエロが亡くなり、1527年のローマ劫略によってルネサンスの古典主義美術は終わります。その後マニエリスムの手法が登場し、そしてそれが劇的な表現のバロック芸術へと移行するのですが、その過渡期を代表する画家であるパドヴァーニの作品も展示されます。

ヴェネツィアの3巨匠やその周辺の画家たちの作品を鑑賞することで、フィレンツェやローマだけでないルネサンスを知ると同時に、カラヴァッジョが創始したとされるバロックへの予感を楽しんでください。

 



聖なるもの、俗なるもの メッケネムとドイツ初期銅版画」 終了しました。
会期:2016年7月9日(土)~9月19日(月・祝)
場所:国立西洋美術館(東京・上野公園)

イスラエル・ファン・メッケネム(c.1445-1503)は、15世紀後半から16世紀初頭のドイツで活躍した銅版画家で、デューラーらと並ぶ版画の創始者と考えられています。本展は、日本ではほとんどその名前を知られていないメッケネムを,日本で初めて本格的に紹介する展覧会です。

メッケネムは模索者としても活躍し、生涯に膨大な数の模作を制作しました。写真が無かった当時、オリジナルの作品を写し残すことは大変重要なことで、優れた模作はとても高く評価されました。銅板画はマスメディアの手段として、たいへん重要なものだったのです。彼の作品は、ヨーロッパ中に普及しました。

メッケネムが制作した版画の大半は、キリスト教を主題としたものです。メッケネムは、この世で犯した罪が許される贖宥の為の銅版画を手掛けた初めての人でした。2万年分の免罪が約束されるとされた版画も展示されます。

版画は油彩に比較して、安価で手軽に制作できました。そのため描かれたテーマは自由で、特に男女の駆け引きに対する風刺は人気がありました。メッケネムの作品も、同時の風俗や人々の日常がユーモアタップリに表現されています。

家庭内の主導権を握りたい妻が、髪を振り乱して夫に糸巻棒で殴りかかる姿や、不倫の関係を想像させるカップルのデートも描かれています。

イスラエル・ファン・メッケネム ≪ズボンをめぐる戦い≫ 、連作<日常生活の諸場面>より エングレーヴィング 

 ミュンヘン州立版画素描館 Staatliche Graphische Sammlung München

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版画の楽しみのひとつは、その細密な描写です。メッケネムの作品に多くみられるエングレーヴィングとは、凹版の中で最も古い技法です。銅などの金属板をよく磨き、そこにビュランという特殊な道具で線を刻み、その刻み目にインクを詰めて紙に転写します。

ビュランの刃の断面は菱形あるいは正方形で金属板にV字の溝ができるので、線はシャープになります。1本の線を彫り始めるとき、ゆっくりとビュランを押し出し、彫り終わりは徐々に溝を浅くするので、線の端は鋭くとがっている場合が多いのです。均一な線や曲線を刻むにはかなりの熟練した技術が必要とされ、1枚の版を彫りあげるには大変な時間がかかったそうです。

この技法は1430年代頃にライン川上流域(現在のスイス西部、ドイツ南部、フランスのアルザス地方にまたがる地域)で成立したと考えられています。初期は、金工職人が金属に施した装飾を記録するために紙を押し付けて転写したことから始まったそうです。

初期の版画家の多くは、金工職人としての修業を積んでいました。金工細工は高貴な人々のために制作されたので、エングレーヴィングは木版画に比較して、高価な収集品として扱われました。現在、大量生産されたにもかかわらず木版画の現存数がエングレーヴィングに比べで少ないのは、そんな理由があるのかもしれません。

1470年代になると、本展でも展示されるマルティン・ショーンガウアーが版画を大きく発展させます。彼は版画の線によって微妙な質感を描き分けたのです。また、画面に奥行など空間表現を可能にし、その中の登場人物などの関係性を描きました。

その後、ライン川上流域から下流域(現在のオランダ、ドイツ西部)でエングレーヴィングは始まり、メッケネムの活躍が始まります。メッケネムの作品≪エッケ・ホモ≫では、手前には群衆のグループ、中間にキリストとローマ総督ピラトのグループ、そして奥には、この場面より前に起こった事件なのですが、妻から彼女が見た夢のはなしを聞くピラトの姿が描かれ、私たちの視線は手前から奥の空間へと誘導されます。

イスラエル・ファン・メッケネム ≪エッケ・ホモ≫ 、連作<受難殿>より エングレーヴィング

 ミュンヘン州立版画素描館 (外部寄託)Aschaffenburg.Schioss.Aschaffenburger Bestand derStaatliche Graphische Sammlung München

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一見すると地味で暗い印象のする版画ですが、その均一な細線で描かれているのは、生身の人間世界や体温のある動物たち、そしてそれらが語る物語です。色や筆触が無く均一に描かれているので、一見地味で退屈に思えるかもしれませんが、すみずみまで引かれた繊細な線による冷静な積み重ねが生む世界に見入れば、初めて見た時には気付かなかったいろいろなモノやコトが発見できるでしょう。

 



メアリー・カサット展 終了しました。
期間: 2016年6月25日(土)~ 9月11日(日)
場所: 横浜美術館
メアリー・カサット(1844~1926)は、印象派展に参加した唯一のアメリカ人女性画家です。裕福な家庭に育ち、女性にも入学が許されたペンシルヴァニア美術アカデミーで基礎を学びました。21歳の時、父の反対を押し切ってフランスに留学、パリの画塾で学び、24歳の時サロンに入選します。印象派の展覧会に参加したのは、エドガー・ドガの作品に出合い、彼の指導を受けたのがきっかけです。

ドガの影響からかカサットは、モネやシスレーなど、風景の中の移りゆく光を捉える印象派とは異なり、同時代の人々の日常に温かい眼差しを向けました。特に、幼い子供と母親の心温まる場面を描いた作品は評判で、「母子像の画家」と呼ばれるようになります。

この、母子という主題は、日本の浮世絵が大きな影響を与えています。カサットは、心温まる母子の日常を描いた浮世絵に心動かされたのでしょう。彼女は、歌麿や広重、北斎らの浮世絵を収集していて、1890年にパリのエコール・デ・ボザールで浮世絵が展示されたときには、友人で同じ印象派の女性画家であるベルト・モリゾに「日本美術を観なければなりません。少しでも早くおいでなさい」と急かしたそうです。

本展では、カサットに影響を与えたドガの作品や、彼女が愛した日本美術も展示されます。また当時、女性のエコール・デ・ボザールへの入学が許されず、女性の職業画家が少なかった時代において、画家としての道を貫いたベルト・モリゾやエヴァ・ゴンザレスたち女性画家の作品も観ることが出来ます。仕事や子育てに頑張る女性に、是非観てほしい展覧会です。

画像1:母の愛撫》1896年頃 油彩、フィラデルフィア美術館蔵
Courtesy of the Philadelphia Museum of Art, Bequest of Aaron E Carpenter,1970

画像2:エドガー・ドガ≪踊りの稽古場にて≫1884年頃 パステル ポーラ美術館蔵

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特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅」展 終了しました。

会期:2016年6月21日(火)~9月19日(月・祝)
場所:東京国立博物館 平成館

古代ギリシャの文明は、神話と共に西洋美術の礎になっています。西洋美術を理解し鑑賞を深めるために、古代ギリシャの知識は大変役に立ちます。今回、紀元前7000年の古代ギリシャ世界の始まりから、紀元前31年をはじめとするローマ時代までのギリシャ芸術を、時代の流れに沿って時空を超えた旅のように鑑賞することが出来る展覧会が開催されます。

ひとことで古代ギリシャ文明といっても、時代や地域により様々に異なる文化が花開いてきました。本展では、ギリシャ本土の新石器時代から青銅器時代、クレタ島のミノス文明、再びギリシャのミュケナイ文明へ。そして長い暗黒の時代を経て幾何学様式とアルカイック時代、後の西洋美術に大きな影響を与えたクラシック時代からヘレニズムとローマ時代へと、目も眩むような長く多様な芸術の旅を体験できる展覧会です。

■古代ギリシャ世界の始まり(前7000年紀~前2000年頃)

BC6000年頃、小アジアの先住民によって、ギリシャに新石器時代の技術がもたらされました。BC2600年頃には、地中海東部のシリアやエジプトあたりの沿岸地域と交流し、青銅器文化を吸収し始めます。ギリシャは青銅の原料となるスズや銅が乏しかったのですが、それでも農具や武具の製造技術は大変向上しました。この青銅器時代初期のギリシャには、いわゆる「ギリシャ的」な文明はまだ見られませんでした。

初期青銅器時代にエーゲ海の真ん中のキュクラデス諸島で花開いたキュクラデス文明はこの時代を代表する文明です。展覧会ではキュクラデス特有の大理石小像で、目を閉じ腕を組むポーズの愛らしい≪スペドス型女性像≫を観ることが出来ます。

≪スペドス型女性像≫ 初期キュクラデスⅡ期、シュロス期(前2800~前2300年) キュクラデス博物館蔵

©Nicholas and Dolly Goulandris Foundation- Museum of Cycladic Art, Athens, Greece

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■ミノス文明(前3000年頃~前1100年頃)

BC2000年頃になって、インド・ヨーロッパ語に属するアーリア人がギリシャの土地に侵入して、各地で戦争を起こしました。青銅器時代の宮殿や墓が破壊され、副葬品は略奪されます。その侵略をまぬかれたのが、ギリシャ本土南方の地中海に浮かぶクレタ島です。クレタ島では、BC2000年ころまでに美しい宮殿がいくつも建設され、島の中央部の都市クノッソスに住む代々ミノスと名乗る王により支配されていました。

クレタ島ではおそらく2回、大地震と火山噴火がありました。BC1700年頃に起こったテラ島の火山噴火の時、灰に埋もれ、結果的に保存されたフレスコ画≪漁夫のフレスコ画≫も展示されます。この魚を両手に持つ美しい若者の姿は、チラシにも使われています。

■ミュケナイ文明(前1600年頃~前1100年頃)

紀元前1450年頃に、ギリシャはクレタ島を征服、ギリシャの人々は、進んだクレタの文明を取り入れつつ、独自のミュケナイ文明を開花させます。美術はミノス文明の影響を受けていますが、都市は堅牢な城壁に囲まれていました。このことはギリシャ神話の原典のひとつホメロスの『イリアス』にもうたわれています。

■幾何学様式~アルカイック時代(前900年頃~前480年)

ミュケナイ文明は、BC1200年頃、突如として崩壊します。ギリシャ本土やクレタ島の城壁が次々と消え、城壁や王宮は廃墟と化しました。その理由は今も歴史家の中で論争が続いています。ミュケナイ文明崩壊後、貧困と混乱の「暗黒時代」を経て、アテネ、スパルタ、テーバイなどの小国が形成されます。BC800年にはポリス(都市国家)が誕生します。アテネでは最初の民主政治の基礎が築かれました。

この時代は幾何学文様が発達し、その後オリエント由来の動物や植物のモチーフに変化していきます。また、ギリシャ文字がつくられ、それまでの口誦文学が文字化され叙事詩となり、文学が誕生します。農民詩人ヘシオドスは、たくさんの神話を系統だてて整理し『神統記』などを著しました。民主政治が台頭したアルカイック時代には、魅惑的なアルカイック・スマイルの等身大の大理石像が登場します。微笑ながら片足を前に出し、一歩踏み出そうとする男性像が展示されますが、このポーズはエジプト文化の影響を受けています。同時に展示される女性像と比較してみましょう。

■クラシック時代(前480年~前323年)

紀元前508年にアテネに民主政治が確立し、紀元前480年頃にギリシャ連合軍がペルシャを撃退した後、クラシック時代が始まります。アテネのアクロポリスにはパルテノン神殿が建設され、演劇や哲学が盛んになります。当時制作された人間の理想的身体を表現した彫刻や美術は、後の西洋美術に大きな影響を与えました。神話に登場する、アポロン、アルテミス、レトの浮彫やディオニソスとアリアドネ、ポセイドンとアミュモネの二つの神話が描かれている器などが展示されます。

■ヘレニズムとローマ(前323年~)

また、ヘレニズム時代(紀元前323年~前31年)にギリシャ美術は拡大し、とてもリアルな肖像彫刻や官能的な女性像が登場します。≪アルテミス像≫はヘレニズム後期の特徴である優美な表現の女神像です。彼女は、オリュンポス12神の一人で、狩猟と弓術を司り、同時に野生の動物、子供たち、弱き者を守護する神です。けれども、彼女の沐浴する姿を偶然見てしまった人間の男性アクタイオンを鹿に変身させ、猟犬の餌食にするという激しい一面もある女神です。展示作品には勇ましさが表現されてなく、ヘレニズム的な優美な像となっています。


紀元前31年に、エジプトの女王クレオパトラがローマに敗れ、地中海はローマの内海となります。ローマ人たちは、ギリシャの美術や文化に魅了され、自らの文化と同一視しながら継承していきました。

≪アルテミス像≫ 前100年頃 アテネ国立考古学博物館蔵 

©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund

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このほか、ギリシャの北方で、黄金を豊富に産出したマケドニア王国の、新石器時代からヘレニズム時代に至るまでのまばゆいばかりの冠や宝飾品が展示されます。

2020年に東京で開催されるオリンピックに盛り上がる日本ですが、今年2016年は1896年に最初の近代オリンピックがギリシャで開催されてから120年にあたります。紀元前8世紀、オリンピアのゼウス神域で4年に一度開催された競技祭が始まり、全ギリシャから選手が集まる大競技祭になりました。本展では、競技種目を陶器画などで紹介し、競技像や道具も展示されます。

赤像式パナテナイア小型アンフォラ ボクシング 前500年頃 アテネ国立考古学博物館蔵

©The Hellenic Ministry of Culture and Sports- Archaeological Receipts Fund

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古代ギリシャは、神話の舞台です。ミノス島は、王妃と牡牛との間に生まれた牛頭人身のミノタウロスが迷宮ラビュリントスに閉じ込められていた島。怪物を退治したテセウスとミノス王の娘アリアドネとのロマンスの舞台でもあります。ミュケナイは、アトレウスやその子アガメムノンの一族が、暴力や淫蕩などの行為を行った土地です。ギリシャの貴重な副葬品、フレスコ画、彫刻などを鑑賞し、神話の世界を旅してください。

 



西洋更紗 トワル・ド・ジュイ展 終了しました。

期間:2016年6月14日(火)~2016年7月31日(日)
場所:Bunkamura サ・ミュージアム 渋谷・東急本店横

トワル(toil)とは、フランス語で布地のこと、ジュイはフランスのヴェルサイユ近郊にあるジュイ=アン=ジョザスという村の名前です。この展覧会は、日本で初めて本格的にトワル・ド・ジュイの世界を紹介し、ロココの時代の人々を夢中にさせたトワル・ド・ジュイの美しさを伝えます。ドイツ人クリストフ・オーベルカンプ(1738~1815)によって1760年に設立されたジュイの工場では、ジャン=バティスト・ユエをデザイナーに起用して、風景や神話、聖書の物語や伝説などを題材にした更紗を作りました。

トワル・ド・ジュイの物語は、インド更紗の流行から始まります。更紗とは、木綿に捺染(プリント)をしたものです。当時のヨーロッパの人々は、綿を知りませんでした。ウールと麻が一般的で、一部の上流の人が絹を使用していました。「インド更紗」は、東インド会社によって17世紀初頭から大量にヨーロッパ諸国にもたらされました。「インド更紗」の持つ、堅牢な色彩技術や多彩な彩り、軽くてしなやかな風合い、洗濯できる。そしてなにより異国的な模様が、貴族階級をはじめとして町人階級の男女に熱狂的に受け入れられました。人々は「インド更紗」を、アンディアンヌ(Indiennes)やサラート(Saratas)と呼んで愛し、おしゃれな婦人たちはドレスを、紳士たちは部屋着を作ったそうです。


「インド更紗」の熱狂的な人気で、輸入量を大幅に上回る需要があったため、ヨーロッパ各地で「インド更紗」を作る試みがされました。最初は、17世紀中頃にドイツとポルトガルがイミテーションを作りました。けれどもそれらは、安価で質の劣るものでした。1676年に英国人の製版者ウィリアム・シャーウィンが初めて「インド更紗」に遜色のないイギリス更紗を完成させます。1685年にはイギリスに最初の捺染工場ができます。

18世紀の半ばまで、ヨーロッパの捺染業者は、自分で模様を制作する資料も力もありませんでした。なので、初期の「ヨーロッパ更紗」は、エキゾチックな東洋の花や果物をモチーフにした、本物そっくりのコピー作品がほとんどでした。けれども18世紀の中ごろから後半にかけて、ロココ模様の影響を受けた自然主義的傾向の柄が登場します。ヨーロッパ更紗の主題は、エキゾチックな花柄から、西洋本来の花柄へ変わっていきます。シャクヤク、バラ、水仙、ヒヤシンス、チューリップ、リラ、なでしこが登場、またロココの特徴であるリボンや蔓草、縞模様などを用いてインド更紗の総柄でなく、美しい空間を持った構図へと変化します。

ルイ14世時代、インド更紗の熱狂が自国の麻や絹、毛織物の生産者に打撃を与えていたため、1686年から次々と更紗に対する禁止令が発布されました。けれども、密輸が増える一方であまり効果が無かったので、1759年禁止令が廃止されます。その翌年、オーベルカンプによってジュイの更紗工場が設立されます。その後工場は大成功、1783年にはフランス王朝の王立工場の称号を獲得します。

≪工場の仕事》(1783年)には、木版捺染の作業工程が詳細に描かれていて、当時の作業手順を知ることができます。この作品は銅板を用いた捺染法で、今までにないエッチングのような細い線で、写実的に描かれています。エキゾチックなインド更紗からヨーロッパ独自の更紗を誕生させるため、当時の人々は何を参考にしたのでしょう?何をヨーロッパ的だと考えたのでしょう。そんな視点で鑑賞するのも楽しい展覧会です。

≪コクシギル≫ 1795年頃 木版プリント・綿(ジュイ製)

トワル・ド・ジュイ美術館蔵 ©Courtesy Musée de la Toile de Jouy

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≪工場の仕事≫ J.B.ユエによるデザイン 1783年 銅板プリント・綿(ジュイ製)

トワル・ド・ジュイ美術館蔵 ©Courtesy Musée de la Toile de Jouy

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「ポンピドゥーセンター傑作」展 ―ピカソ/マチス/デュシャンからクリストまでー 終了しました。

会期:2016年6月11日(土)~9月22日(木・祝)
場所:東京都美術館 企画展示室

ポンピドゥー・センターは、1977年にパリの中心部に開館しました。正式名ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術センターで、国立近代美術館・産業創造センター・公共情報図書室・音響音楽研究所などで構成されたフランス国立の総合文化施設です。

透明なチューブ状のエスカレーターが目を引く、まるで工場のような外観の建物は、レンゾ・ピアノ(1937-)とリチャード・ロジャース(1933-)によって設計されました。当時はその先進的なデザインで議論を巻き起こしましたが、現在は年間500万人が訪れるパリの重要な文化拠点。またパリの人たちや観光客などが集う憩いの広場のシンボルとしても、愛されています。

ポンピドゥー・センターの中核である国立近代美術館は、20世紀初めから現在までの作品を約11万点所蔵する世界有数の美術館です。本展では、シャガールピカソマティスデュシャンなど、ポンピドゥー・センターが誇る巨匠たちの傑作約70点が展示されます。

この展覧会は、フランス20世紀に焦点をあて、1906年から1977年までの美術の流れを、1年1作品によってたどる展覧会です。それぞれの1年を代表する画家たちの作品を通して、当時のフランス社会や人々の暮らしを想像しながら鑑賞するのも楽しいでしょう。

まず1906年を代表するは、ラウル・デュフィ≪旗で飾られた通り≫です。この年の夏、デュフィは故郷ノルマンディー地方のル・アーブルに住まいを移します。この作品は、その故郷ル・アーブルの7月14日、フランス革命記念日のドラピエ通りを描いています。

デュフィ―(1877-1953)は1900年にパリに出たとき、この故郷ル・アーブル市からの月額100フランの奨学金で暮らしました。生活に十分な額ではなかったようですが、彼は貧しいながらも身支度を整え、常に堂々としていて、とにかく明るい人物だったそうです。1905年のサロン・ドートンヌでデュフィは、マティスの≪豪奢・静謐・逸楽≫に出合います。彼は、「色彩とは単純に物の色を表すのではなく、自分の感受性を表現する手段だ」と気づくのです。

少し高い視線から描かれたこの作品は、革命記念日の高揚した雰囲気よりも、国旗や建物の色の面を幾何学的に構成し配列した、静かで整然とした秩序ある画面を作り上げています。ル・アーブルを写実的に描いた風景画ではなく、色の面の力、意味、そしてバランスの美しさを持つ、デュフィの内なる目が再構成した「ル・アーブル」です。

ラウル・デュフイ ≪旗で飾られた通り≫ 1906年 

©Georges Meguerditchian - Centre Pompidou, MNAM-CCI

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デュフィのように色彩に魅了された画家にボナール(1867-1947)がいます。光を生み出すような色彩の秩序を追求したのがデュフィだとすれば、ボナールは、色彩の輝きを探し求めた画家でした。かれは「絵画とは無数の色点の集合」と考えていました。

色点を並列させて、移ろう光を追い求めた印象派の画家との違いは、たとえばモネが、実物を見ながら野外で制作することにこだわる一方、ボナールはアトリエの中で記憶を呼び起こしながら描きました。彼は、目の前にある事実を写すことや偶然の効果に頼ることよりも、情景の本質を描くことを大切だと考えました。絵画の出発点は理念であって、それを忘れないために現実の映像から距離を置いた所で描いていたのです。

1920年代に、ボナールは「水」と言うテーマに魅了され始めます。この時期、妻マルトが入浴する姿やバスタブのそばにいる姿が数多く描かれています。マルトはボナールの生涯を通じて芸術の源泉となりました。病弱な彼女の静養のため、南仏の地を転々としているうちに、ボナールは色彩に開眼しました。本作品は、朝の柔らかい光のなかで色彩のコントラストが装飾的な美しさで描かれています。

身近で日常的な題材を好んで取り上げたボナールは、親密派の画家と呼ばれました。若いころゴーガンを指導者と仰ぐナビ派の運動に一時的に加わったものの、フォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスム、抽象絵画と目まぐるしく変化する20世紀美術の中で、いずれにも参加せず彼独自の世界を守り続けました。

しかしそんな中、彼に大きな影響を与えたのは日本の浮世絵です。ナビ派の時代「日本的ナビ」と呼ばれるほど浮世絵に熱中したボナールは構図などを自らの作品に応用しています。遠近法や立体の表現、題材や画面の構成など、西洋的なものを排除した浮世絵的な表現を、本作品の中に探すのも楽しい鑑賞でしょう。

ピエール・ボナール ≪浴槽の裸婦≫ 1931年

© Adam Rzepka – Centre Pompidou, MNAM-CCI

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アンリ・マティス(1869-1954)も「東方」にインスピレーションを得た画家です。東方とは西洋人にとって、日本・インド・ペルシャ・アラビアを含めた世界で、異国情緒に満ちた豪華な夢と穏やかな安息の地というイメージで受け止められていました。そしてマティスは、自分自身の絵画の中に、東方世界の慰めと休息を込めようとしました。

1910年、マティスはドイツのミュンヘンでイスラム美術を観て深い感銘をうけます。また1911年~1912年にかけて二度モロッコ旅行に出かけました。この頃のマティスは、それまで彼が中心となって推し進めてきたフォーヴィスムが解体期に入りはじめ、新たな絵画の方向性を求めてました。

そして彼は、平面的で装飾的な絵画に到達します。遠近感や明暗、立体表現などを捨て、絵画を単純な色彩の饗宴だけに還元しました。東方の織物やペルシャのミニアチュアのような、奥行きを否定した画面と埋め尽くされる装飾に出会ったことが、彼の新しい絵画に革新を与えたのです。

マティスの平面的で装飾的な表現において、その主題の中で室内は重要なテーマでした。1948制作の本作は、マティスが室内を描いた最後の1点です。真っ赤に塗りつぶされた部屋は、天井や床、壁の存在が明らかではありません。壁の絵画、床に置かれたテーブル、動物の毛皮はそれぞれ二つずつ描かれていますが、それらの位置関係は定まってはいません。

けれどもこの作品の前に立てば、私たちはマティスの感性で選ばれた色と、単純化された形態のモチーフの世界に包まれます。マティスが望んだように彼の作品は、私たちに不安も悩みもない平穏な幸せの時を提供してくれるでしょう。

アンリ・マティス ≪大きな赤い室内≫ 1948年

Bertrand Prévost - Centre Pompidou, MNAM-CCI

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「世界遺産 ポンペイの壁画展」 終了しました。

期間: 2016年4月29日(金・祝)~ 7月3日(日)
場所: 森アーツセンターギャラリー

ポンペイは、紀元後79年、ヴェスヴィオ山の噴火により終焉を迎えました。その突然の天災は、当時の人々の暮らしをそのまま閉じ込め、幸いにも破壊を免れ、後に発掘された遺跡は、私たちに古代ローマの高度な技術と豊かな文化を伝えてくれます。

これまでのポンペイ展は、考古学の視点による博物館的な展示でした。今回の展覧会は、噴火の被害を免れたフレスコ画や、古代ローマの別荘の壁画など、2000年前の絵画を鑑賞する「壁画展」としてのポンペイ展です。

18世紀に再発見されたポンペイの遺跡は、古代ローマの人々の豊かで平等な暮らしを伝え、近代の人々の政治や文化に大きな影響を与えました。また、壁画に描かれたギリシャ神話の神々の描き方は、その後の西洋美術の画家たちに大きなインスピレーションを与えたのです。

今回、ポンペイとともに世界遺産に登録されているエルコラーノ遺跡から日本初公開の≪赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス≫≪テセウスのミノタウロス退治≫≪ケイロンによるアキレウスの教育≫の三つの壁画がそろって展示されます。若者の教育の場とも考えられているアウグステウム(通称バシリカ)に飾られていたこれらの壁画から、子供の救出や教育といった子供にまつわる物語を読み取ってみましょう。

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画像1:《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

画像2:カルミアーノの農園別荘(壁画を一連の空間装飾として再現した展示イメージ)
写真提供:Altritaliani

 



デトロイト美術館展~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち 終了しました。

豊田展 会期2016年4月27日(水)~6月26日(日) 豊田市美術館
大阪展 会期2016年7月9日(土)~9月25日(日) 大阪市立美術館
東京展 会期2016年10月7日(金)~2017年1月21日(土) 上野の森美術館

デトロイトと言えば車産業で盛んな都市。もともと、馬車や自転車製造が盛んだったそうですが、1899年に自動車産業が始まり、フォード、クライスラー、ゼネラルモータースとともに都市も発展、モーターシティと呼ばれるようになりました。けれども2011年から税収が激減、デトロイト市は2013年7月に財政破綻してしまいました。

デトロイト美術館は、1885年に開館した美術館です。新聞界や自動車業界の有力者たちからの資金援助を通じて、世界の優れた美術品を収集、1922年にはアメリカ国内の公共美術館として初めてゴッホマティスをコレクションしました。しかしその後のデトロイト市財政危機により、収蔵品の売却や美術館自体の存続まで懸念される事態となってしまったのです。

けれども自動車関連の企業を中心とした国内外の資金援助やデトロイト市民の声により、コレクションは1点たりとも失われることなく、古代エジプトから現代美術まで6万5千点のコレクションを所蔵し、現在年間60万人が訪れる全米を代表する美術館として、人々の憩いや学びの場を提供しています。

本展覧会は、デトロイト美術館の幅広いコレクションの中から、日本でも人気の高い印象派を含むヨーロッパの近代絵画の名品52点を展示しています。その中には、日本初公開の作品が15点もあります。展覧会は4つの章で構成され、印象派からポスト印象派へ、そして20世紀美術へと時間の流れにそって鑑賞することが出来ます。


第1章>は印象派を代表する、モネ、ドガ、ルノワールの作品が紹介されます。それまでのアカデミックな絵画とは異なる「戸外での制作」や「同時代の風俗」を主題にした、生き生きとした「筆触」と「明るい配色」で「移ろう光」や「瞬間の動き」を描いた印象派の作品を楽しみましょう。

クロード・モネ ≪グラジオラス≫ 1876年 City of Detroit Purchase


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第2章>は、ポスト印象派の絵画です。「無名芸術家協会展」として始まった印象派の展覧会は、1886年の第8回で終了してしまいました。その後フランスを中心に、印象派を引き継ぎつつも新しい方向を模索、制作する画家たちが活躍します。この章では、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌたち、ポスト印象派を代表する画家たちの傑作が展示されます。日本初公開のゴッホ≪オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて≫やアメリカの公共美術館にはいった最初のゴッホ作品≪自画像≫も必見です。

本展の大きな見どころの一つは、20世紀ドイツ絵画でしょう。<第3章>は、20世紀のドイツ絵画です。ミュンヘンで活躍したカンディンスキーの初期の抽象画や、ドイツ表現主義を代表するキルヒナー、ウィーン世紀末のココシュカなど、日本で触れる機会が少ない作品をじっくり鑑賞しましょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ ≪自画像≫ 1887年 City of Detroit Purchase

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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー ≪月下の冬景色≫ 1919

Gift of Curt Valentin in memory of the artist on the occasion of Dr. William R. Valentiner's 60th birthday 

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<第4章>は20世紀フランス絵画、マティス、モディリアーニ、ピカソの作品です。20世紀美術は、画家たちの個性がより際立つ時代です。個性的な色使いや人物表現など、彼らの新しい絵画表現を興味深く観ると同時に、改めて印象派から始まる絵画の近代化の流れや変化を考えてみましょう。

この展覧会は、デトロイト市とともに「クルマのまち」として1960年に姉妹都市として提携を結んだ豊田市から始まります。その後、大阪展、東京展と巡回します。また、デトロイト美術館の多くのギャラリーでは写真撮影が許可されていて、今回の展覧会も期間・曜日・時間帯の制限はあるものの、写真撮影が許可されます。各館により異なりますので、事前に問い合わせてください。

アメデオ・モディリアーニ ≪女の肖像≫ 1917 -1920 City of Detroit Purchase

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メディチ家の至宝展  終了しました。

期間: 2016年4月22日(金)~ 7月5日(火)
場所: 東京都庭園美術館(本館・新館)

メディチ家は、両替商から身を起こし、ルネサンス発祥の地フィレンツェを繁栄に導いた一族で、フィレンツェ専制君主、トスカーナ大公とのぼりつめ、一族からはローマ教皇やフランス王妃をも輩出させました。そのメディチ家に伝わる珠玉のコレクションが来日、東京都庭園美術館で展覧会が開催されます。

見どころの一つは、フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・イル・マニフィコなどメディチ家代々の当主たちを魅了した古代や中世のカメオ。ルネサンスといえば、古代ギリシャ・ローマへの憧れからその時代に学ぶことで花開いた文化ですが、この展覧会では、古代の神々や神話をモチーフにしたカメオが多数出品され、当時の人々が強く魅かれた神話の世界をジュエリーを通して観ることが出来ます。

また、歴代メディチ家当主や妃等の肖像画20点と、彼らにまつわるジュエリー約60点が展示されます。ロレンツォ・イル・マニフィコや初代トスカーナ大公コジモ1世、フランス王アンリ2世の妻カテリーナ・デ・メディチ、フランス王アンリ4世の妻マリア・デ・メディチ、そしてメディチ家最後の血族アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの肖像に加え、日本初公開となるマリア・デ・メディチの肖像画がやってきます。

マリア・デ・メディチはコジモ1世の長女で、17歳でこの世を去りました。初来日の肖像画はチラシにも採用されていますが、スペイン貴族であった母親エレオノーラ・ディ・トレド譲りの美貌をブロンズィーノ(1503‐1572)が描いています。この展覧会は女性が主役、彼女たちが身に着けていたであろうジュエリーから、当時の文化と技術を知ることもできます。

ジュエリーは絵画や彫刻といった美術品に比較して、現代に伝わる作品は多くありません。それは、持ち主が亡くなると共に埋葬されることもあった持ち主個人とのつながりが強いプライベートな芸術品だからです。

この私的な美術作品を、アール・デコの館として知られる旧朝香邸で鑑賞することで、より親密な芸術鑑賞ができるでしょう。

ジュエリーは小さな彫刻です。この繊細な世界を覗き込むとき、これらを愛した人々の心と私たちの感動が重なり合います。ルネサンス美術の知られざる一面、ジュエリーで観るルネサンス芸術の機会を楽しみましょう。

画像1:古代ローマ工芸(カメオ) イタリアの金工家(フレーム)

《ナクソス島のバッコスとアリアドネ》

3世紀(カメオ) 16世紀(フレーム) オニキス 金 1個の真珠 多色七宝
フィレンツェ  国立考古学博物館蔵
 Firenze, Museo Archeologico Nazionale

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画像2ブロンズィーノ《マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像》1551年 油彩/板 

フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵 A. Quattrone

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「生誕300年記念 若冲」展 終了しました。

期間: 2016年4月22日(金)~ 5月24日(火)
場所: 東京都美術館

伊藤若冲(1716-1800)は、京都錦小路の青物問屋の長男として生まれ、23歳の時に家業を継ぎます。家業の傍ら30代で作画を始め、狩野派の画法を学び、中国古典絵画を模写します。けれども画を写すことに限界を感じ、身近な動植物の観察を重ね、画力を高めました。40歳の時、家督を弟に譲り画業に専念します。

作画を始めた頃、生涯の友となる相国寺の僧大典顕常と知り合います。独特の作風などから、奇人としての印象がある若冲ですが、実は仏の教えを尊ぶ画人で、30代中頃に仏門に帰依したと考えられています。≪動植綵絵≫は仏教画として描かれました。

本展では、若冲が京都・相国寺に寄進した≪釈迦三尊像≫3幅と≪動植綵絵≫30幅が東京で初めて一堂に会します。≪動植綵絵≫は、花と鳥、魚と貝と虫など、様々な生き物の姿をかりて、人間の一生の様々な感情を描いているかのようです。

若冲は73歳のとき、京都の町を焼き尽くした天明の大火の為住居と画室が焼失し、大坂に避難しました。多くの財産を失い、初めて生活のために描くことを余儀なくされますが、災難をバネに精力的に描きました。75歳の作≪仙人掌群鶏図襖絵≫は、≪動植綵絵≫にも通じるエネルギーを持つ、活気あふれる作品です。展覧会期間はほぼ一か月。この機会をお見逃しなく!!

画像1:《動植綵絵 老松白鳳図》絹本着色 一幅 141.8×79.7cm 宮内庁三の丸尚蔵館

画像2:重要文化財《仙人掌群鶏図襖絵》紙本金地着色 襖六面 各177.2×92.2cm 寛政2年(1790年) 大阪・西福寺

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ユリカナ展Ⅱ 終了しました。

会期:2016年4月20日(水)~5月8日(日) 11:00~20:00
場所:渋谷ヒカリエ 8F「8/CUBE1,2,3」

ユリカナとは二人のクリエーターの名前、百合 佐和子(ゆり・さわこ)と金澤 正人(かなざわ・まさと)のユリとカナを繋げた言葉。資生堂の化粧品「マジョリカ マジョルカ」の独自の世界観を創りだした二人の展覧会は、2013年に引き続き二回目の開催となります。

百合 佐和子は、資生堂ビューティークリエーションセンターに所属するヘア&メーキャップアーティスト。宣伝広告・CM、またパリ、ニューヨーク、東京コレクションのヘアー&メーキャップを手掛け、商品開発にも携わってきました。資生堂の運営するヘア&メーキャップスクールSABFAの講師でもあります。

金澤 正人は資生堂宣伝・デザイン部に所属するフォトグラファー。女優やタレントといった人物から商品写真まで、資生堂の広告写真を多数手掛けてきました。2011年に、初の個展「darkness and brightness」を銀座キャノンギャラリーなどで開催しました。

今回「マジョルカ マジョリカ」の美を創造した二人は、宣伝広告から離れアーティスト活動としての作品を制作しました。それは、新しい美の指針ともいえる独自の KAWAII(カワイイ世界を表現した写真作品です。かつて日本の若い女性が、オジサンにも洋服にも、素敵に見えたものに対して「カワイイ」を連呼してから、「カワイイ」は日本独自の表現として世界に広がり、現在「カワイイ」は時代を映しながら、多様化し進化しています。

人気モデルゆら、琉花、小松菜奈、玉城ティナを起用した、「ユリカナ」の「カワイイ」世界は、あどけなく妖艶、ストレートで意味深、陽気で陰気な、相反するキーワードを内包しながら、新しい時代の女性像を見せています。普段、広告宣伝の仕事をしている二人ならではの視点、社会背景を見据えつつ誕生させたファイン・アートの世界をご覧ください。

連休にはイベントが開催され、アーティストトークも予定されています。

イラストレーター宇野亞喜良、長谷川洋子とコラボレーションした作品も展示。

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三好和義展 『楽園の跡 軍艦島』 終了しました。

期間: 2016年4月15日(金)~ 5月12日(木)
場所: エプソンイメージングギャラリーエプサイト

三好和義(1958‐)は「楽園」をテーマに写真を撮る写真家として著名であり、これまで色鮮やかな作品を数多く発表し続けています。けれども、今回の個展はモノクロプリントです。現像の段階で、軍艦島にはモノクロームの世界がいいのではないかと感じたそうです。カラーで撮影したデータをモノクロにして、表現したい作品作りに挑戦したのです。

40年前、17歳で初めて個展を開いた三好の作品はモノクロでした。それ以来の白と黒の作品の発表です。けれども、当時のアナログ写真から現在のデジタル写真へと、技術は大きく進化しています。プリンターの技術力、用紙の進化、デジタルカメラの表現力も、デジタルならではの緻密性が表現できるようになったのです。黒は深く発色し、細部の再現は比較にならないと言っていいほど緻密になったのです。三好はそこに注目しました。40年ぶりの白と黒の作品ですが、デジタル技術の力を作品に反映させ、新しい写真の原点を示してくれています。

本ギャラリーはエプソン販売が運営しています。フイルムで撮影し、暗室で現像することにこだわる作家もいる中、このギャラリーはインクジェットプリントの作品制作による展覧会を常に開催しています。今回の三好とのコラボレーションで生まれた作品も、プリンターによる新たな作品の誕生なのです。

三好は、白と黒の美しさ滑らかなグラデーションで軍艦島を魅せます。作品は近景も遠景も、植物も建物も海も、捉えられているモチーフすべてにピントがあっているのです。まるで、デューラーの版画やフランドルの画家の作品を観るようです。

写真は、新聞や記念写真など、情報や思い出を記録するものとして私たちの生活の身近にあります。そのため、アート写真は絵画や彫刻と比較して、アートの領域に理解されにくい存在でしょう。デジタル写真で撮影しプリンターで印刷することが一般的になってきた今、アート写真とは何かという疑問の答えの一つを、三好の作品に見たような気がします。

作品のあらゆるところがはっきりと再現されています。これは、何枚もピントを合わせ撮影した画像を組み合わせているのです。そして、作品ごとの空の色(黒の濃度)の違いや光のきらめきの美しさは、画像情報をパソコン上で、まるで絵画を描くように色彩・明度・彩度を細かく選択して作り上げます。シャッターを切ったそのあとの、長いこだわりの時間が作品に魂を宿すのです。本ギャラリーに赴き、作品をじっくり鑑賞し、たくさんの発見をしてください。

作品1

ⓒKazuyoshi Miyoshi

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作品2

ⓒKazuyoshi Miyoshi

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REVALUE NIPPON PROJECT展 終了しました。

期間: 2016年4月9日(土)~ 6月5日(日)
場所: パナソニック汐留ミュージアム0

REVALUE NIPPON PROJECT(リヴァリュー ニッポン プロジェクト)とは、元サッカー日本代表の中田英寿が現役引退後続けているアートプロジェクト。引退後海外を巡るうち、彼に投げかけられた質問の中でサッカーの次に多かったのは日本についてでした。日本の文化を改めて学びたいと考えた中田は、沖縄から日本中を回る旅をスタート、全都道府県を回り日本の工芸について考察を深めていきました。


プロジェクトは、日本が連綿と受け継いできた伝統工芸や文化、技術の価値を再発見し、広めるきっかけとして始まりました。2010年に陶磁器2011年に和紙、その後2012年、2014年型紙、2015年と工芸の素材を選びそれぞれ、工芸家、コラボレーター、アドバイザリーボードの3者のチームで進められ、作品誕生後はCHARITY GALAで初披露、一部を会場でオークション、その後展示や販売まで活動の一部となっています。そのため、このプロジェクトの作品はコレクターの所有となった物が多く、一般に公開される機会は少なかったのです。

本展は、本プロジェクトで誕生した作品を紹介する初めての展覧会です。各カテゴリーごとにグルーピングされながらも、広がりのある展示空間には、日本の伝統的な技術と現代のアート感覚が混ざり合った、クール・ジャパン・アートの世界が広がっています。

≪UFO鍋≫はタジン鍋をアイデアに、植葉香澄(陶芸家)と奈良美智(現代美術家)中田英寿がチームとなって誕生した作品。冬に身体を温めてくれる鍋を基本にしながらも、オブジェとして成立した愛らしい作品。

≪WHITE≫は、日本の風景を和紙にプリントした写真作品。鈴木理策(写真家)の作品には、堀木エリ子(和紙アーティスト)の雲母を梳きこんだ和紙が使われています。和紙の風合いと雲母のきらめきが、印画紙では表現しにくい温もりと静かな生命力を感じさせます。その他、写真作品は異なる写真家による5作品が展示されていて、堀木はその写真のイメージにあわせて異なる和紙を選んでいます。

私たちは、どれほど日本の伝統工芸を知っているでしょう。改めて素晴らしい技術を知ると同時に、伝統を礎にした新しい日本アートの未来を想起する機会となる展覧会です。


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特別展「生誕150年 黒田清輝 - 日本近代絵画の巨匠」 終了しました。

期間: 2016年3月23日(水)~ 5月15日(日)
場所: 東京国立博物館 平成館

黒田清輝(1866-1924)は、日本美術の近代化のために尽力した画家です。幕末の鹿児島に生まれた黒田は、明治維新の功績を認められ明治政府に重用されていた伯父の養子となり、本家を継ぐことになっていました。18歳になる年にフランスへ留学しますが、絵画ではなく法律を学ぶためでした。

パリで滞在中の日本人と交流する中、知り合った洋画家の山本芳翠や藤雅三らは、黒田に本格的に絵画を学ぶよう勧めました。藤雅三がラファエル・コランに師事する際、通訳として同行した事がきっかけで、黒田は21歳のとき、ラファエル・コランの教室で学ぶこととなります。ここで生涯の友、久米桂一郎と出会います。

コランのもとで基礎的な学びを終えると、黒田はロアン河沿いの村グレーを訪れます。パリから東南に80kmほど、フォンテーヌブローの森をこえたところにあるグレー村は1880年代以降、フランスの印象派の画家たちに加えて、北欧、東欧、アメリカから来た画家や文学者が逗留し、静かな田園生活を楽しんだ場所です。黒田や久米が滞在、またその10年後には浅井忠がこの地で生活するなど、日本人画家も多く滞在しました。

黒田はこのグレー村の農家の娘マリア・ビヨーと恋に落ちます。彼女をモデルに≪読書≫などを描きました。この作品はフランスのサロンに入選、フランス画壇へのデビュー作品となります。

画像1:≪読書≫黒田清輝 黒田清輝 1891年(明治24)
カンヴァス、油彩 98.2×78.8cm 東京国立博物館蔵


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27歳のとき黒田の帰国によりマリアとは別れてしまいます。日本の画壇は、フランス絵画の洗礼を受けた黒田の帰国を待っていました。帰国の翌年日清戦争に従軍画家として参加、戦地から帰った29歳の時、日本での画家としての活動を本格的に始めます。けれどもこの年に第四回勧業博覧会に出品した≪朝妝≫は、ヌードという主題が当時の日本には受け入れられず、「裸体画論争」を引き起こしてしまいました。この作品は戦災で失われましたが、本展では写真パネルで作品を紹介します。

30歳の時、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の講師となり、同時に洋画団体の「明治美術会」から離れ「白馬会」を結成します。そして翌年、日本女性の理想的な人体像を描いた裸体画≪智・感・情≫を発表します。この作品は、白馬会に出品された後加筆され、3年後のパリ万博に出展されて銀を受賞しました。

画像2:重要文化財 智・感・情 黒田清輝 1899年(明治32)
カンヴァス、油彩 各180.6×99.8cm 東京国立博物館蔵


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その頃から黒田は、美術教育や美術行政官の役割を担い、1910年44歳の時、洋画家として初めて帝室技芸員に任命されます。さらには1920年、貴族院議員に当選、政界での活動に忙しく、作品制作の時間を削られる生活となりました。宮内省に出勤中、もともと糖尿病を患っていた黒田は狭心症を起こし倒れます。晩年、黒田は多忙な日々の中、鎌倉の別荘で読書や制作に向かう時を持つようになったそうです。1924年58歳の時に描かれた≪梅林≫は、療養中に自宅の病室から見える梅林を描いた小さなサイズの作品で、黒田の最後の作品です。

画像3:梅林 黒田清輝 1924年(大正13)  板、油彩 25.9×34.8cm 東京国立博物館蔵

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近代日本に印象派の明るい光の表現を取り入れたの絵画を伝え、裸体画への理解の為奔走し、絵筆で明治の日本を開いた黒田の生涯をじっくり見つめることのできる展覧会です。師であるコランの作品も展示されます。黒田が学んだコランの裸体画≪フロレアル(花月)≫も是非ご覧ください。

画像4:フロレアル(花月) ラファエル・コラン 1886年 カンヴァス、油彩 110.0×185.0cm オルセー美術館蔵(アラス美術館寄託)

ⒸRMN-Grand Palais (musée d'Orsay)/Hervé Lewandowski/distributed by AMF


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現在、国立博物館平成館(東京・上野)にて、特別展「生誕 150 年 黒田清輝 ―日本近代絵画の 巨匠」〈会期:2016 年 3 月 23 日(水)~5 月 15 日(日)〉を絶賛開催中です。(主催:東京国立博物 館、東京文化財研究所、朝日新聞社、NHK、NHKプロモーション) 本展は、《湖畔》で広く知られ、日本美術の近代化のために尽力した黒田清輝(1866-1924)の生 誕150年を記念した、国立博物館初の大回顧展です。初期から晩年までの代表作を含む、黒田作品約 200件に加え、黒田がフランス留学時代に影響を受けた師ラファエル・コランをはじめモネ、ミレー ら同時期のフランス絵画もあわせ計 240件を一堂に展示しています。

 なかでもミレーの代表作、あの《落穂拾い》《晩鐘》と並ぶオルセー美術館所蔵のミレー三大名画 の一つと言われる羊飼いの少女》が特別出品されています。《羊飼いの少女》は、ミレーを一気に 国民的画家にまで引き上げ、そして画家としての成功に導いた作品でもあります。黒田のフランス 留学中、1887 年にはパリでミレーの大回顧展が開催され、この絵も出品されました。その年末、黒 田はモデル代にも困窮する中、ミレーの画集を購入しています。農民の生活を描くミレーへの共感 は、《祈禱》などの作品にもあらわれています。 是非、この機会に「近代洋画の父」ともいわれる黒田清輝の代表作の数々と、その原点の一つで あるミレーの傑作をご覧ください。

羊飼いの少女》 

ジャン=フランソワ・ミレー 1863年頃 カンヴァス、油彩 81.0×100.1cm オルセー美術館蔵 ⒸRMN-Grand Palais (musée d'Orsay)/Michel Urtado/ distributed by AMF

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「PARISオートクチュール 世界に一つだけの服」展 終了しました。

期間: 2016年3月4日(金)~ 5月22日(日)
場所: 三菱一号館美術館

イギリス人のシャルル=フレデリック・ウォルト(1825-95)は、1857年に、パリのリュ・ド・ラ・ペに自分のメゾンを創設し、季節ごとに新しいデザインの服を、生きた人間(マヌカン)に着せて、コレクションを開催するという方法を最初に考案しました。彼は、現在も続いているパリ・オートクチュールの基礎を築いた一人です。

オートクチュールとは、Haute:「高い」「高級」・Couture:「縫製」「仕立て」の意味で、プレタポルテが「既製服」であるのに対して「高級注文服」を意味し、パリ・クチュール組合が承認したブランドにより、顧客の注文に合わせてデザイナー主導で仕立てられます。60年代にプレタポルテが大衆消費社会に広がるまで、女性のファッションはオートクチュールが担っていました。

ファッションの変遷はシルエットの変化と言ってもいいでしょう。女性の身体の美しさは時代によって変わるのです。長い間、細いウエストと広がったスカートが美しいとされていました。けれどもポール・ポワレ(1879-1944)やマドレーヌ・ヴィオネ(1876-1975)は、ハイウエストのストレートなラインのドレスを発表、長い間身体を締め付けていたコルセットから女性を解放しました。第二次世界大戦後の1947年には、再び細いウエストを強調、たっぷりと布地を使ったクリスチャン・ディオールのニュールックが登場します。

現在もオートクチュールの伝統は継続され、今年も1月に春夏コレクションが発表されました。2~3ヵ月後、自分だけの1着が顧客の手元に届くでしょう。贅沢な注文服は、時代にそぐわないと考えられてきましたが、高度な技術の継承、手作りによる希少性などへの関心が高まる中、新たなオートクチュールの時代がやってきています。

本展は、ガリエラ宮パリ市立モード美術館の監修で、ドレス、小物、デザイン画、写真など、約130点のファッションアイテムが展示されます。時代に呼応したデザイナーの創造と、それを支えた技術の結晶であるオートクチュールを、心行くまで楽しみましょう。

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画像: クリスチャン・ディオール イヴニング・ドレス≪パルミール≫1952年秋冬

ガリエラ宮パリ市立モード美術館蔵
ⓒ Katerina Jebb @ mfilomeno.com


 



カラヴァッジョ展 終了しました。

期間: 2016年3月1日(火)~ 6月12日(日)
場所: 国立西洋美術館

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571‐1610)はイタリアバロックの先駆者。ミラノで生まれ、ローマで宗教画家として著名となります。けれど1606年に殺人を犯します。ローマの作品だけでなく、逃亡先各地で残した作品も彼の業績を広めました。

バロックという言葉は「歪んだ真珠」の意味で、不規則、風変り、不均等なことを指しています。バロック絵画では、光と闇のドラマティックな表現が特徴です。

1517年のルターの告発によって宗教改革が始まり、プロテスタント側の勢力が拡大しました。カトリック教会は巻き返しを図る為に美術の力を利用しようと考え、多くの建築家、彫刻家、画家に仕事を依頼したのです。イタリアだけでなく国外からも仕事を求めて多くの芸術家がローマに向かいました。カラヴァッジョもその一人でした。

本展では、彼がローマに移った直後、まだ教会から依頼を受ける前の風俗画の代表作である≪果物籠を持つ少年≫(1593‐94)と≪バッカス≫(1597‐98頃)が揃って出品。

また、殺人を犯した1606年に、逃亡の為滞在したザガローロという町で描かれた≪エマオの晩餐≫(1606)も展示されます。

 



「イングリッシュ・ガーデン 英国に集う花々」展  終了しました。

期間: 2016年1月16日(土)~ 3月21日(月・祝)
場所: パナソニック 汐留ミュージアム

ロンドン南西部のキューにある王立美術館である「キュー王立美術館」は、18世紀の半ばに英国王の私的な庭園として始まりました。
現在、最先端の植物学の研究機関であり、世界有数の植物園でもあります。

また「キュー王立美術館」は、約22万点もの膨大なボタニカル・アートのコレクションを収蔵していて、今回初めてその作品がまとめて出品されます。ボタニカル・アートの歴史を知ることのできるたいへん貴重な機会です。

17世紀のオランダやドイツで描かれた植物図譜画、18世紀以降の植物学が本格的に始まり、めずらしい植物を求めた大航海時代のスケッチや絵画、そして産業革命の大量生産に反発するように誕生した装飾美術など、時代の流れに沿って鑑賞できます。

ボタニカル・アートは、一枚に一種類の植物を、実物大か縮尺の倍率を表記して描きます。遠近法は使わず、背景もありません。時には、植物の解剖図、切断図、部分図も同時に描かれています。冷静な観察眼と、美しさを求める審美的な視点が同時に存在する表現が、ボタニカル・アートの魅力と言ってもいいでしょう。

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画像: セバスチャン・シューデル≪マルタゴン・リリー(ユリ科)とクロアザミ(キク科)、他(『カレンダリウム』より)17世紀初頭、キュー王立植物園像

ⓒ The Board of Trustees of the Royal Botanic Gardens, Kew


 



フェルメールトレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展 終了しました。

期間: 2016年1月14日(木)~ 3月31日(木)
場所: 森アーツセンターギャラリー

フェルメール(1632‐1675)はオランダの画家。デルフトで生まれその地で生涯を過ごしました。没後、彼の存在は忘れられていましたが19世紀中頃に再評価され、現在たいへん人気のある画家の一人です。

レンブラント(1606‐1669)もオランダの画家でレイデン生まれ。≪夜警≫(1642)に代表される集団肖像画で美術史にその名を遺しています。63歳の生涯は、身内の死や財政破綻など辛いこともありましたが、逆境に負けず傑作を制作しました。

17世紀オランダ黄金時代を代表する画家二人の作品を、同時に鑑賞することがでる本展。日本初公開のフェルメールの≪水差しを持つ女≫(1662)とレンブラント≪ベローナ≫(1633)は必見です。

同時代の画家たちの作品60点も展示されています。ヤン・ステーンは、「若い娘さんの」トラブルや誘惑を身近な事件として描く画家。フランス・ハルスの「どこかで会ったことのあるおじさん」のような肖像画も楽しみです。

 



英国の夢 ラファエル前派展 終了しました。

期間: 2015年12月22日(火)~ 2016年3月6日(日)
場所: Bunkamura ザ・ミュージアム

ラファエル前派とは、ラファエロが現れる盛期ルネサンスより前の、中世や初期ルネサンスに戻ろう!!と、イギリスに登場した若い芸術家のグループ。

ラファエロ・サンティは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並びルネサンス三大巨匠のひとり。1520年に亡くなったとき、ルネサンスは終わったされ、同時に絵画は完成されたと考えられました。イギリスのロイヤル・アカデミーもラファエロは芸術の頂点と考え、画家たちにその画風を強制したのです。

ヴィクトリア女王が大英帝国に君臨した19世紀は、産業革命の恩恵で大変繁栄していましたが、無味乾燥な大量生産品が日常品として流通する時代でもあり、人々は生活に「美」を求めていました。そんな時代に繊細で華麗な「美」を追い求めた絵画が登場したのです。

ラファエル前派の若者たちは、15世紀フランドルやボッティチェリ、ティツィアーノなどを手本としました。ボッティチェリ展は、4月3日まで東京都美術館で開催されているので、美しい線描や細密な描写など、彼らが学んだ「美」を発見することもできるでしょう。

新潟市美術館  2015年7月19日(日)~ 2015年9月23日(水・祝) 
名古屋市美術館 2015年10月3日(土)~ 2015年12月13日(日) 
山口県立美術館 2016年3月18日(金)~ 2016年5月8日(日)